国葬と、東西の知性―知性や主体のちがい

 知性の点から、安倍元首相の国葬についてを見てみられるとすると、どういったことが見えてくるだろうか。

 反知性だったのが、安倍晋三元首相なのだとは、しないようにしてみたい。知性がなかったのが安倍元首相なのだとはしないでおきたい。

 色々にある知性の中でも、関係による知性によっていたのが、安倍元首相だった。関係による知性は、関係の主体(referential subject)であることによる。

 西洋では、日本のように関係の主体によるのではなくて、絶対の主体(absolute subject)による。絶対の主体は、個人主義のあり方だ。

 絶対の主体によるのが西洋だ。そのあり方だと、人を見ぬく知性がやしなわれやすい。

 いろいろにある知性の中で、人を見ぬく知性がより高いのが西洋(人)であり、それに劣っているのが日本(人)だ。

 日本よりも、人を見ぬく知性がより高いのが西洋だから、西洋からすれば、安倍元首相がどうだったのかを見抜きやすい。日本の国が何をしようとしているのかを見抜くことができやすい。

 人をだますさいには、だます人のほうが頭が良くて、だまされる人のほうが頭が悪くないと、だましが成り立ちづらい。

 人を見ぬく知性では、西洋のほうがかしこくて、日本はばかだから、日本が西洋をだますことはできづらい。西洋は、日本にはだまされづらい。西洋は、日本よりは、人を見ぬく知性ではよりかしこいのがあるから、日本なんかにはだまされづらいものだろう。

 どこからどう見てもばかなのが日本なのではなくて、関係による知性は高い。関係による知性が高かったのが安倍元首相だったが、その知性は、日本では通じても、西洋では通じづらい。西洋では、人を見ぬく知性が主のあり方であり、そこまで関係による知性は通じづらいものだろう。日本ほどには、関係による知性が主とはなっていない。

 関係の主体による、関係による知性にもとづくもよおしなのが国葬だ。人を見ぬく知性からすれば、へんな(おかしな)もよおしなのだ。人を見ぬく知性からすれば、国葬に反対や批判をすることになる。

 関係による知性の点からすれば、ぜひともやるべきことなのが国葬だ。その知性からすればそれが言えるけど、人を見ぬく知性の点からすれば、それをやってもやらなくても同じだ。むしろ、やらないほうがより良い。

 主体のあり方では、日本の関係の主体においては、国葬は大事なもよおしだけど、西洋の絶対の主体においては、価値があまりないものだろう。正の価値であるよりも、負の価値をもつもよおしだと見なせるところがある。

 日本のものさしを中心化するのではなくて、西洋のものさしを当てはめてみると、むしろ国葬はそれをやるのであるよりも、やらないほうがよかった。安倍元首相は、西洋のものさしを当てはめてみると、低い評価づけの人物になる。日本のものさしを当てはめたときほどには、高い評価づけにはならない。

 日本のものさしを中心化して、それを当てはめれば、安倍元首相への評価づけは高くなる。甘い見なし方になる。それが、西洋にまで広く通じるのかといえば、そうはなりづらい。日本のものさしとはちがうものさしがあるのが西洋であり、文化がちがう。同じ文化ではなくて、異文化なのがあり、異文化である西洋のものさしからすれば、安倍元首相への評価づけは低くなり、きびしい見なし方になる。

 知性によっては、国葬をよしとすることになるけど、ちがう知性からすれば、反国葬がふさわしいことになる。日本で主の知性からすれば、国葬をよしとすることになるけど、同じ日本の中でも、ちがう知性を持つ人も少なからずおきていて、そのちがう知性からすれば、反国葬をよしとすることになる。反国葬をよしとする知性は、どちらかといえば、西洋で主の知性(人を見ぬく知性)に近しいものだ。

 参照文献 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『木を見る西洋人 森を見る東洋人―思考の違いはいかにして生まれるか』リチャード・E・ニスベット 村本由紀子訳