殺された安倍元首相の、表象のしかたのおかしさ―死んだ人を悪く言ってはいけないのか

 死んだ人の悪口は言うべきではない。もう死んでしまったのだから、その人のことを悪く言わないほうがよいというのである。

 殺された安倍晋三元首相のことを、悪く言うべきではないのだろうか。

 安倍元首相は、殺されて亡くなったが、その安倍元首相をどのように見なすのかは、表象(representation)による。

 表象は、それそのものではない。自然なものではなく、人為や人工の構築性がある。構築性があるから、可変性があるものだ。脱構築(deconstruction)がなりたつ。あたかも固定された不変なものであるかのように、自然化や本質化しないようにしたい。

 たとえ亡くなったのだとしても、その故人である安倍元首相への表象のしかたがおかしい。生きているときの安倍元首相への表象のしかたもおかしかったが、亡くなったあともまた表象のしかたがおかしい。

 なんで表象のしかたがおかしいのかと言えば、安倍元首相と一体化しすぎているからだ。安倍元首相を対象化できていない。対象化するには距離をとることがいるけど、距離がなくなっているからそれができない。距離が失われていて、政治のまひがおきているのである。

 どういうふうに表象をするのかでは、元首相をよく言うのにせよ、悪く言うのにせよ、どちらも当たっている。どちらも、元首相の一部を言っているものであり、森の全体の中の木に当たることだろう。

 あたかも、すごいよい人だったかのように元首相のことを表象する。すごいすぐれた政治家であったかのように表象する。テレビ番組などでは、そうした表象が行なわれている。

 テレビ番組などで、すごい悪い人だったとか、悪い政治家だったと元首相を表象するのであれば、それはそれでかたよっているのだと言えなくはない。あくまでも、森の全体の中の一つの木についてをとり上げて、それを表象しているところがある。

 どういう表象のされ方が行なわれているのかを見てみると、悪いふうに表象されているのではなくて、その逆に、良いように表象されすぎている。よい人だった、または良い政治家だったと表象されているけど、それは元首相の生のありよう(presentation)とはかなりずれている。

 生のありようとはかなりずれた表象のされ方が、テレビ番組などでは行なわれている。もっと、元首相の悪いところを見ていって、表象を修正して行かないとならない。そうでないと、生のありようから大きくずれた表象が流通しつづけてしまう。

 そうとうに上げ底になった表象がとられていて、基礎づけやしたて上げが行なわれている。すごいよい人だったとか、よい政治家だったといったようには、基礎づけたりしたて上げたりできづらい。

 元首相が生きているときに、どういう人だったのかや、どういう政治家だったのかを見てみると、悪いところがあったことは否定できない。政治で、悪いことをいくつもやっていたことはいなめない。正のところだけではなくて、負のところがいくつもある。

 正のところだけではなくて、負のところである否定の契機をとり上げて行く。否定の契機を隠ぺいして、それで表象してしまうと、すごいよい人だったとか、よい政治家だったといったまちがった表象になる。テレビ番組などでは、まちがった表象がなされているから、そこにまずさがある。

 正のところだけによっていて、負のところ(否定の契機)を隠ぺいして、表象がなされている。元首相についての表象では、そのまずさがあるから、生のありように少しでも近づけるためには、表象を修正して、否定の契機をどんどんとり上げて、そこを見て行かないとならない。

 死んだ人を悪く言うのがまずいのであるよりも、死んだ(亡くなった)人についての表象のしかたにまずさがあることがわかる。元首相は、上げ底の表象のされ方になっていて、そこがまずい。生のありようとはずれたいんちきの表象になっていて、それがテレビ番組などでさかんに報じられている。

 参照文献 『象の鼻としっぽ コミュニケーションギャップのメカニズム』細谷功(ほそやいさお) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明