ヒトラーに例えることと、暴走老人―何が暴走しているのか

 暴走老人だとされたのが、野党の立憲民主党菅直人元首相だ。菅元首相は、ヒトラーに例えることを言ったために、暴走しているのだと言われている。ヒトラーに例えられたのは、野党の日本維新の会の関係者だ。

 菅元首相は暴走老人であることから、立憲民主党は菅元首相を党から切るべきだと言われていた。はたして、菅元首相は暴走していると言えるのだろうか。立憲民主党は菅元首相を党から切り捨てるべきなのだろうか。

 作家で元政治家の石原慎太郎氏は、いぜんに、暴走老人だと言われていた。そう言われたのを石原氏は気に入っていた。暴走老人に否定や消極ではなくて、肯定や積極の意味あいを見てとっていた。よい含意を見いだしていた。逆手にとり、ひらき直ったのがある。

 菅元首相にも、よい含意をこめたかたちでの暴走老人と言えるところはあるかもしれない。暴走老人であるといわれた菅元首相をもっと見習うべきであり、みんなが暴走老人になり、まねをして行く。あとにつづいて行く。与党である自由民主党や、維新の会のことをどんどん批判をして行く。

 どちらかといえば、図式としては、菅元首相が暴走老人なのではなくて、その逆に抑制するほうだと言える。いまの日本の国には、抑制するのが足りていなくて、抑制のにない手が足りていない。

 抑制と均衡(checks and balances)ができていないのが日本の国の政治だ。自民党や維新の会が暴走しているのを、止められなくなっている。止めることのにない手が足りていない。暴走をうながす人はたくさんいて、権力の奴隷はたくさんいる。権力のごますりやたいこ持ちや茶坊主はいっぱいいる。

 受けのよいことが日本の国の政治では言われているのがあり、それによって暴走が進んでいっている。たとえ受けが悪いのだとしても、耳に快く響かなくても、それでも抑制をかけて行く。そうしたことがあまりやられていない。抑制をはずして行こうとする動きが強まっていて、それによって暴走がすすんで行く。抑制をかけて行く力がどんどん弱まっていっている。

 お金と言葉による語りが政治の二大の要素だが、お金つまり国の財政がそうとうにきびしくなっている。借金だらけなのだ。その中で、言葉による語りがそうとうに乱れてきている。語りの質が落ちていっている。語りの底に穴が空いてしまっているのがあり、底抜けとなっていて、語りの下限が下に引きずり落ちて行く。語りの質が落ちているのは、民主主義としては危ない兆候だ。

 ヒトラーに見られるように、政治家による語りには危なさがつきまとう。政治家は国民の表象(representation)だから、うそをつきやすい。ごまかしを言いやすい。もともと政治家の語りはそのまま丸ごとうのみにはできづらいものだが、それがいまの日本の国の政治ではなおさらそれが強まっている。

 政治における語りの質が落ちているのがいまの日本の国の政治だ。哲学者のフランシス・ベーコン氏が言う、偶像(idola)の点からそれをとらえられる。偶像には、種族、洞くつ、市場、劇場のものがあるという。種族の偶像は人間性に根ざす。洞くつの偶像は個人の欠陥からくる。市場の偶像は言葉のこん乱による。劇場の偶像は伝統の思想がつくり出す虚偽だ。

 日本の国の政治が右傾化していっていて、それで今にいたっているのは、暴走に歯止めがかからなくなっているためだろう。歯止めをかけるにない手がいなくなっている。歯止めをかけるにない手がきちんといれば、右傾化するのを止められるが、それができていなくて、右傾化が進んでいっている。

 暴走しているのは何なのかといえば、それは菅元首相であるとは言えそうにない。菅元首相が暴走しているのだとするのはとらえちがいなのがあり、まちがって暴走しているのは自民党と維新の会だ。それらが暴走しているのだと批判することができていないのがあり、暴走を止められなくなっている。

 いろいろなものに分散されている多元性によるのであれば、全体がまちがった方向に進んで行きづらい。多元性があるのがのぞましいが、日本の国の政治ではそれができていなくて、一元性の方向に向かっていっている。一元性になりすぎると、全体主義におちいる。

 一元性の方向に向かっていっているのが日本の国の政治であり、自民党への求心性が強まっていて、一強になっている。しぶしぶほかのものがあるのを認めるような包摂から、ほかのものを認めないものである排斥に向かっているのが日本の国の政治だろう。包摂から排斥へと向かっていっているのがあり、自民党(または維新の会)だけが正しくて、そのほかのものはまちがっているといったあり方がとられている。

 自民党や維新の会は、ほかのものにたいして排斥なのがあるが、党の中においても排斥のあり方になっている。党の中に多元性がないために、党が暴走している。党の中にいろいろな声がなくて、党の上の政治家を批判する声がおきなくなっている。党の中に、党に抑制をかけるにない手がいない。党の全体が、ただ一つだけのものによるかくあるべきのあり方になっていて、上からの強制になっていて、党の中に自由がない。これは選挙のしくみの小選挙区制がわざわいしているところがある。

 党の中から菅元首相を切り捨てるかどうかはともかくとして、立憲民主党の中で、菅元首相をよしとする人がいてもよいし、批判をする人がいてもよいだろう。党の中にいろいろな人がいたほうがまっとうなあり方だ。自民党や維新の会はそうなっていなくて、党の中の上の政治家に、下の政治家はしたがうだけだ。

 党の中の上の政治家を疑うことがないから、党がまちがった方向に暴走しているのが自民党や維新の会だろう。もっと上の政治家や、上にいる党の関係者を疑って行き、批判をして行き、歯止めをかけて行かないとならない。上を疑うのや批判をするのがないと、党の中の効率はよくなるものの、適正さが欠けて行く。支配の効率をよくすることだけが自己目的化して行く。

 参照文献 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『右傾化する日本政治』中野晃一 『思考のレッスン』丸谷才一 『政治家を疑え』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司