消費税を上げるべきか、それとも下げるべきか(もしくはなくすべきか)―経済学の最適化によって見てみる

 消費税を下げる。消費税をなくす。野党であるれいわ新選組はそう言っている。そのことについてをどのように見なすことができるだろうか。それについてを、経済学でいわれる最適化とていどのちがいによって見てみたい。

 いまの日本はどういったあり方になっているのかといえば、消費税において、くぼみ(niche)にはまってしまっている。くぼみから脱せられないでいるのだ。

 いまは消費税が複数税制になっていて、一般のものには一〇パーセントで食料品などには八パーセントになっている。この税率では、日本の国の財政のぼう大な赤字を何とかするためにはまったく足りていない。毎年の国の予算をまかなうのにもまったく足りていない。いまの消費税の税率はあまり意味をなしていないのである。くぼみにはまってしまっている。

 いちばんはじめに日本に消費税が導入されたときは、あるていどの合理性があった。部分の最適化(local optimal)になるものだった。はじめに導入されたときには、いまほどには税率が高くなかったから、いまほどには痛みは大きくはなかったものだろう。それゆえに、いまほどには抵抗感が強くはなかったと言える。

 将来において消費税の税率をどんどん引き上げて行くことが計画されていたので、税率が少しずつ引き上げられていった。この税率の引き上げは、部分の最適化をなして行くものである。段階的に税率を引き上げて行くその一つひとつの段階が、部分の最適化だったのだ。

 消費税の税率を引き上げて行けば、はじめのころよりも痛みが強くなり、抵抗感が強まって行く。これはていどによるものである。痛みや抵抗感のていどがより強まってきて、いまにいたっている。いまは痛みや抵抗感が、とんでもなく強すぎるとは言い切れず、弱すぎるとも言い切れず、中途半端になっている。

 消費税を引き上げるのと、その反対に引き下げようとしたりなくそうとしたりするのは、どちらもそれなりの合理性をもつ。どちらも完ぺきな合理性をもつとはいえないし、まったく非合理だとも言えない。完ぺきに正しいとか完ぺきにまちがっているといったようには基礎づけたりしたて上げたりできづらい。

 理想といえるほどの全体の最適(global optimal)にはならずに、部分の最適化にしかならないところにまずさがある。いくら正しいところがあるからといっても、消費税を引き上げたところで、部分の最適化にしかならないし、その反対に消費税を引き下げたりなくしたりしたところで、同じように部分の最適化にしかならないことになる。

 いまの消費税の税率ではなくて、いちばんはじめに消費税が導入されたときの低めの税率のときであれば、ていどとしては消費税の有無はそれほどに大きなちがいはない。階段の段差でいえば、一段の段差が低めであり、すごくきついといったほどではない。税率が高くなればなるほど、階段の段差が高くなり、きつさが増して行く。

 どの段階かとか、いつの段階かを見てみると、消費税をなくすのと、それを導入したてのときの低い税率のときとでは、それほどちがいはないといえる。それほどのちがいがないので、部分の最適化になっていた。そこから税率を段階的に引き上げていって、部分の最適化をくり返し行なってきて、いまにいたっているのだ。

 ひと口に消費税といっても、それがどれくらいの税率のときなのかによってちがってくる。どれくらいの税率のときなのかは、どの段階のときなのかやいつの段階のときなのかであり、どういった状況のときなのかである。状況のちがいによって、消費税がもつ意味あいは異なってくる。状況のちがいをくみ入れるようにして、それによる消費税の意味あいの(多少の)ちがいを見るようにしたい。

 消費税の税率を引き下げていったり、なくそうとしたりするのは、部分の最適化にはなるかもしれないが、それをやって行くと、消費税にたいする痛みや抵抗感が下がって行く。痛みや抵抗感が下がって行くことによって、逆に消費税があることによる意味もまたおきてくる。いちばんはじめのころの低めの税率であれば、消費税を導入することは部分の最適化になった。

 いまの日本は、国の財政にぼう大な赤字を抱えているので、負っている問題があまりにも重すぎる。部分の最適化のわなにはまっていて、くぼみから脱せられないでいる。身うごきができなくなっている。理想といえる全体の最適にいたるにはほど遠いのがあり、少しでもよい方向に進んで行く見通しが立っていない。くぼみから脱するために、どのようにしたらよいのかがわからない状況だ。謎解き(puzzle)でいえば、答えが一つもないといえるかもしれない。

 問題には三つの種類があると言われていて、答えの数のちがいによる。答えが一つだけある(puzzle)のと、答えがいくつもある(dilemma)のと、答えがまったくないもの(paradox)がある。dilemmaの di は二つを意味して、 lemma は仮定の意だ。paradox の para は逆の意で、doxa はふつうの考え方の意味だ。標準の考え方は orthodox だ。

 日本の国の財政や、消費税をどうするのかでは、答えがまったくないものに当てはまりそうだ。打つ手があるとはどうも見なしづらい。はまりこんでいるくぼみから脱する見こみが立たないでいる。

 参照文献 『論理パラドクス 論証力を磨く九九問』三浦俊彦 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一