共産党と、反共と、やじ馬―やじ馬の範ちゅう(集合)と価値

 反共の運動(campaign)がやられている。共産党はそう言っているが、じっさいにはどうなのだろうか。

 ふ分けをしてみると、日本共産党について、正と負の報じ方がある。

 しんぶんの赤旗(あかはた)は、共産党が出しているものだけど、必ずしも正の報道ができているとはいえそうにない。共産党についての報じ方は、負の報道になっているところがある。

 日本の国にたいしては、よいやじ馬になれているのがしんぶんの赤旗だ。そこは、正のやじ馬になれているけど、共産党については、そうなれていない。

 ほめるのではなくて、共産党にきびしいことを言うのを、ぜんぶひっくるめて反共だとしてしまっているのが共産党だ。そこをふ分けしてみると、反共の中には、負のやじ馬だけではなくて、正のやじ馬も混ざっている。ぜんぶが負のやじ馬なのではない。

 党の内にいた人を除名して、党の外に追い出したのが共産党だ。除名された人は、負ではなくて、正のやじ馬にあたる見こみがある。正のやじ馬だったら、ちゃんとしたものだから、それを否定するのは良いことではない。

 どういうのが正のやじ馬なのかといえば、報道にいるものである、やじ馬の精神をもつ。わい雑なやじ馬の精神をもっていて、それが健全で健康で品格がある。一人の市民として、自分の意見を(報道や批評などの形で)言う。

 反共の中には負のやじ馬がかなり含まれていて、それは不健全で不健康で下品すぎるものだろう。そういうのは良くないものだから、共産党がそれを批判するのは当たっている。まとを得たものだ。

 玉石が混交(mixed bag)しているのが反共であり、ぜんぶが石なのではなくて、中には玉をふくむ。中には玉も含まれているから、それをすくい出す。そうしないと、石といっしょに玉も捨ててしまうことになる。

 範ちゅう(集合)と価値をふ分けしてみると、やじ馬にも、正と負があり、良いものと悪いものがある。人でいえば、すべての人が善人とはいえないのがあり、人の範ちゅうには、よい人や悪い人などの色々な価値をふくむ。

 党の中に、正の良いやじ馬がいたけど、それを除名して党の外に追い出してしまった。そのうたがいがあるのが共産党だろう。正のよいやじ馬を許容せずに、それを許容の範囲の外に置いたのである。

 どういうものを許容の範囲の内に置くべきなのかといえば、ちゃんとした正の良いやじ馬だ。正のやじ馬だったら、共産党をより良くするのに役だつことを色々に言ってくれる。快くて甘いのではなくて不快できびしいことを言うのはあるにしても、党をより良くするのに役だつことを言ってくれるのだから、できればそれを許容の範囲の内に置いたほうがよい。

 よいのも悪いのも含めて、正と負のぜんぶのやじ馬を、許容の範囲の外に置いてしまう。ぜんぶを反共だとしてしまって、それを許容の範囲の外に置く。ふ分けをして、よいものは許容の範囲の内に置くことをしていなくて、正のよいものまで排除してしまっているのが共産党だろう。やり方が大ざっぱでざつなところがある。

 報道をするのにいるものなのがやじ馬の精神とそのわい雑さだけど、それすらも許容の範囲の外に置く。そうしてしまうと、報道することそのものを否定することになってしまう。報道の自由を否定する。共産党はそうしているところがあり、やじ馬の精神を不要なものだとしてしまっている。

 やじ馬の精神は不要なものではなくて、報道にいるものなのだから、その精神や根性(やじ馬の根性)やわい雑さや不純さを許容の範囲の内に置くことがいる。それが報道をそんちょうすることだろう。

 参照文献 『丸谷才一と十六人の東京ジャーナリズム大批判』丸谷才一 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫現代思想を読む事典』今村仁司編 『構築主義とは何か』上野千鶴子