共産党と反共にたいする偏見(へんけん)―独断と偏見と、非論理

 反共は悪い。共産党はよい。よし悪しについて、そう言うことができるのだろうか。

 反共に当たるものとして、共産党のあり方を批判したことで、党から除名された人がいる。除名された人を、共産党は、反共に当たるものだとしている。

 反共が悪いのだとするさいに、気をつけることがいるのは、独断と偏見におちいらないようにすることだ。

 根拠が不たしかで、それが弱いのが、独断によることだ。独断によることで、偏見がおきてしまう。

 偏見によることによって、差別がおきることになる。差別は倫理からすると、するべきではないことだ。差別をしないようにするためには、独断と偏見におちいらないようにすることがいる。

 反共だから悪いのだとしてしまうと、反共の中にもよい人や良い意見があるかもしれないことを切り捨てて捨象(abstract)してしまう。捨象は、抽象化することだ。

 共産党だからよいのだとしてしまうと、党がまちがったことを言ったりやったりしたさいに、それを正しいことだと取りちがえてしまう。

 悪いとされるものであったとしても、中には良いことを含む。そうしたことがあるけど、丸ごと総合で悪いとしてしまうことがあり、それはそのものを象徴化(symbolize)することだ。

 すごく良いものだとされるのが共産党なのだとすると、象徴化されている見こみがある。象徴化されていると、中にまちがったものや悪いものが含まれていても、その負のところが切り捨てられて捨象されてしまう。否定の契機(けいき)が隠ぺい化されることになる。

 否定の契機が隠ぺい化されることによって、そのものが悪いのだとされたり良いのだとされたりすることになる。独断や偏見におちいっていることになり、そこから差別がおきやすい。

 多数派であるよりも少数派なのが共産党だ。偏見がもたれているのが共産党であり、よくないものとして象徴化されているのがある。どちらかといえば負のものだとされているのが共産党だけど、それは独断と偏見によるものだから、根拠が不たしかだ。偏見で共産党が見られているのは、改められることがいる。

 自分たちもまた偏見でものを見てしまっているのがあるのが明らかになったのが共産党だろう。何かものをとらえるさいに、多かれ少なかれ偏見におちいってしまうところがある。そうなってしまうのは、ものごとについてのぜったいに確かな根拠はないからだ。

 多かれ少なかれ偏見におちいってしまうのがあるから、だれであっても、差別をしてしまう。差別をしてしまうのをまぬがれないところがあるから、そこには気をつけたい。

 日本の国の中で、共産党に偏見がもたれているのは、改められることがいる。それとともに、共産党もまた、反共などについて、偏見を持つことを改めるべきだろう。すごく強い偏見になっているのがあるとすると、それを和らげるようにして行く。

 すごく悪いとか、すごく良いとされているものは、象徴化されている見こみがあって、否定の契機が隠ぺい化されているのをうたがえる。象徴化されているのだとすれば、負の部分が切り捨てられて捨象されているから、そこをすくい上げる。

 象徴化されているものについて、そこで捨象されてしまっている部分のところに光を当てて行く。そうすることによって、まちがって象徴化されているのを修正して行きたい。修正することがないと、まちがった象徴化が、どんどん補強(強化)されていってしまい、まちがいが正されることがない。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦現代思想を読む事典』今村仁司編 『「欲望と禁忌(タブー)」の心理分析 現代人の”心のすきま”が読める本』高田明典 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『哲学の味わい方』竹田青嗣(せいじ) 西研(にしけん) 『高校生のための論理思考トレーニング』横山雅彦