緊縮か反緊縮かの割り切れなさ―どちらかだけに割り切れない

 国民への税金が上がって行く。与党である自由民主党は、いまよりもさらに消費税の税率を引き上げることをさぐっている。この動きについてをどのように見ることができるだろうか。

 財政で、緊縮と反緊縮がある中で、緊縮を言う政党はないが、反緊縮を言う政党はいちおうある。反緊縮を言う政党はれいわ新選組がある。そのいっぽうで緊縮をしっかりと言う政党がない。緊縮を言う政党があってもよいが、それがないのが現実だ。

 緊縮を言ったり、反緊縮を言ったりするのは、割り切りのあり方だ。割り切る点で緊縮と反緊縮はたがいに共通点をもつ。日本の財政がおちいっているまずさは、割り切ることができなくなっているところにある。緊縮も言えず、反緊縮も言えない。二律背反(antinomie)になっているのだ。

 政党のなかでは、与党である自民党や、野党の立憲民主党などは、どちらかといえば割り切れないあり方をとっている。緊縮をはっきりと言うことはなく、そうかといって反緊縮をはっきりと言うのでもない。野党のれいわ新選組ほど、反緊縮でまとまっているとは言えず、割り切ったあり方とは言えそうにない。

 自民党が消費税の税率を引き上げようとしていて、国民への税金を上げようとしているのは、緊縮をくみ入れた動きだ。不利益分配の政治をやっていることになる。不利益分配の政治が避けては通れなくなっていることを示している。

 れいわ新選組は、反緊縮でまとまっていて、それを正義だとしているが、いろいろな現実の点をくみ入れると、反緊縮は正義だとは割り切りづらくなる。反緊縮は完全に正しいとして、それを基礎づけたりしたて上げたりできづらい。緊縮はまちがっているとして、それを基礎づけたりしたて上げたりすることもできづらい。

 全体と部分で言えば、れいわ新選組がとっている、反緊縮は正義だとするのは、部分としては正しいが全体として正しいとは言えないものだ。部分としてしか正しくないのがあり、緊縮が全体として正しいとは言えず、部分としてしか正しくないのと同じである。

 理想論と現実論からすると、れいわ新選組がとっているような反緊縮のあり方は、理想論に近いものであり、現実をかなり無視しないとなりたちづらい。現実論のところを見てみると、じっさいの現実は緊縮によっていて、不利益分配の政治が行なわれていることは否定することができない。現実になぜ緊縮や不利益分配の政治が行なわれているのかと言えば、それがまちがっているからであるよりは、それが避けられないからだろう。まちがっていることをわざとやっている(やりつづけている)とは言えそうにない。

 緊縮か反緊縮かの二つのうちのどちらかにはっきりと割り切ることができず、それらが混ざり合っていて、割り切れなくなっているのが現実のありようだろう。白か黒かであるよりも中間の灰色のあり方になっている。中間の灰色のあり方になっている中で、日本の財政は身うごきが取れなくなっていて、首が回らなくなっている。こうすればうまく行くといった道を見いだしづらい。緊縮によるのだとしても、現実を完全にうまく説明し切れないし、反緊縮によるのだとしても、現実を完全にうまく説明し切れない。

 大きな政府か小さな政府かでは、緊縮によって大きな政府を目ざすあり方もできなくはない。日本は財政で国がばく大な借金を抱えているから、現実には緊縮によって大きな政府を目ざすのはきびしいのはある。

 反緊縮によるのだと、小さな政府になってしまい、新自由主義(neoliberalism)と近しくなってしまうおそれがなくはない。反緊縮で税金を下げて減税をするのだと、小さな政府を志向することになり、新自由主義と同じあり方になる。その点で、新自由主義は絶対に悪いものだとは言い切れないものかもしれない。反緊縮をとって、減税を目ざすのだと、小さな政府や新自由主義を部分的によしとするところがおきてくる。

 社会民主主義(social democracy)のあり方だと、反緊縮で減税が言われるのとはちがい、税金を高めていって大きな政府を志向する方向性もある。税金を高めるのは必ずしもそれが悪いことを含意するとはかぎらない。そのかわりに大きな政府を志向して行くこともできなくはない。日本の財政のあり方からすれば、大きな政府を目ざすのはできづらいから、理想論にとどまるものではある。

 比較によって見てみられるとすると、社会民主主義によって、税金を高くとってそのかわりに大きな政府を目ざして行くのは、やろうと思えばいちおうできることではあるが、その道は日本にはむずかしい。日本の財政はそうとうに悪いからだ。

 じっさいに、日本では人によってはそれなりに高い税金をすでにとられているが、大きな政府になっているとはあまり言えないから、税金のとられ損といったところがある。税金を払った額だけの恩恵を国民が受けられているのかと言えば、疑問符がつく。入力と出力が必ずしも見合っていない。高い税金をとってそのかわりに大きな政府を目ざして行くことが日本では困難なことを示していそうだ。

 かりに、税金を高くするかわりに大きな政府を目ざすのだとしても、日本にはそれがむずかしいのだから、反緊縮だとなおさらそれはむずかしい。反緊縮だと、税金を安くして、なおかつ大きな政府も目ざすといったいいところ取りになっている。現実論としてはそうしたいいところ取りができるとは言いがたいだろう。社会民主主義で、高い税金をとって大きな政府を目ざすことは日本にはむずかしいが、それよりもさらに非現実的でむずかしいのが反緊縮だと言える。

 反緊縮で言われるように、減税をして行くのは、税金を払うのを避けることだが、そうではなくて、税金をもっと払って行くのがあってもよいのではないだろうか。かならずしもすべての国民がみんなもれなく高い税金を払っているとは言えず、そんなに税金を払っていない国民も中にはいるものだろう。

 日本に欠けているのは、減税をして行くことであるよりは、納税者が納税者の自覚をもつことが欠けていて、能動ではなくて受動で税金をいやいや支払わされているのをあげられる。大きな政府か小さな政府かであるより以前に、政治で政権がかしこくなくて愚かなのは、国民に納税者の自覚が欠けているために、税金の使われ方を国民がしっかりときびしく監視して行くようにはなっていないのがわざわいしている。税金を支払い、そのかわりにきびしく政権を監視するのではなくて、監視が甘いから、(大きい政府か小さい政府かより以前に)おろかな政権になっている。

 参照文献 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『十八歳からの格差論 日本に本当に必要なもの』井手英策(えいさく)