石原慎太郎氏への評価づけに見られる、御霊信仰のまずさ

 石原慎太郎氏に、国が名誉の位をあたえた。与党である自由民主党の政権は、それを閣議で決めた。

 亡くなった石原氏は、生きているときにいろいろな差別の発言や暴言を言っていた。それなのにもかかわらず、石原氏に名誉の位を国があたえるのはよいことなのだろうか。

 国の政治家や東京都の都知事や作家として生きているときに活動していたのが石原氏だが、それらのことよりも、差別の発言や暴言を言っていたことをまずいこととして重んじるべきだろう。

 国が石原氏に位を与えたのは、日本の国の御霊(ごりょう)信仰がかかわっているといえる。御霊信仰は日本に古くからある信仰で、学者の柳田国男氏が見つけたものだ。亡くなった人がわざわいをもたらすのを避けるために、ていねいにとむらう。ごきげんをとって行く。そうすることによって亡くなった人が負から正へと転じる。よいことをもたらすものに転じる。

 生きているあいだに石原氏がなした差別の発言や暴言を、きびしく批判して行くことが日本の国には必要だ。きびしく批判して行くことをやらずに、石原氏に位を与えるのは、御霊信仰におちいっていることをしめす。

 御霊信仰におちいっていて、石原氏のことをきびしく批判せず、位を与えているようでは、日本の国のことを信頼することはとうていできるものではない。日本の国は信頼にあたいしない。そう言わざるをえない。

 せめて、石原氏については、全体をひっくるめて総合でよしとしてしまわずに、分析して見て行くようにしたい。分析して見て行くようにして、少なくとも部分としてはここは悪かったとか駄目だったとして見て行く。

 よかったところと悪かったところがあるさいに、よかったところは限定化されやすく、一般化されづらい。悪かったところは一般化されやすい。限定化されづらい。石原氏は、生きているときに差別の発言や暴言をやっていたから、その悪いところは一般化されやすい。日本の国は、限定化するどころか、悪いところが無かったかのごとくにしている。

 生きているあいだに石原氏がやった差別の発言や暴言は、石原氏がもっている否定の契機だ。その否定の契機が隠ぺいされてしまう。隠ぺいしたことすらも隠ぺいするような、二重の隠ぺいが行なわれる。日本の国がやっているのは、否定の契機の隠ぺいであり、総合として石原氏をよしとしてしまっているところがある。

 せめて、分析するようにして、こういうところはよかったが、こういうところは悪かったといったようにするべきだろう。ふ分けをして行く。ぜんぶをひっくるめてよかったといったようにするのはまちがいだ。ぜんぶをひっくるめてよかったといったようにするのだと、石原氏がもっている否定の契機が隠ぺいされることになる。

 参照文献 『丸谷才一 追悼総特集 KAWADE 夢ムック』河出書房 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『思想の星座』今村仁司