新聞社が政党といっしょになって手を結び合うのは悪いことなのか―報と政とのゆ着

 政党である大阪維新の会と、報道機関の読売新聞社が、おたがいに手を結び合う。政党と新聞社がおたがいに協力し合うことを決めた。そのことについて批判の声もおきているが、それをどのように見なすことができるだろうか。

 さっそく読売新聞は、維新の会の吉村洋文大阪府知事が、筋力のトレーニングをしている写真をのせた記事をつくった。この記事では、吉村府知事が筋力のトレーニングにはげんでいるのだとして、その姿をあらわした写真がのっているが、じっさいに吉村府知事が日ごろから筋力のトレーニングにはげんでいるのかはほんとうのところは定かではない。そのことがツイッターのツイートなどでつっこまれていた。

 読売新聞が維新の会と手を結んだことは、日本に見られる御霊(ごりょう)信仰や、報道機関のあいだの負の循環(spiral)や、構築主義の点から見てみられそうだ。

 御霊信仰は、日本に古くからある信仰であり、いまでもそれがつづいている。学者の柳田国男氏が見つけたものだ。死者がマイナスのはたらきをもたらすのを防ぐために、死者をていねいにとむらうことで、死者がプラスに転じる。死者のごきげんを取って行く。これは死者だけではなくて生者にも行なわれる。

 大阪維新の会は、大阪府で政治の権力をにぎっている。その大阪維新の会の政治家のごきげんをとるようにしているのが読売新聞だ。これは日本の古くからの信仰である御霊信仰から来ているものだと言える。政治家のごきげんを報道機関がとることになる。報道機関が権力の奴隷と化す。

 テレビの世界では、すでに政治家のごきげんを取って持ち上げることが横行していて、常態化している。テレビの世界では、政治家を持ち上げることがふつうのことのように行なわれているのだから、新聞の記事でそれをやっても悪いことはない。テレビでやっていることを、新聞でも同じようにやって悪いことはない。読売新聞ではそのようにとらえているのだろう。

 報道機関を序列として見てみると、新聞や高級な雑誌、低級な雑誌、テレビ、ウェブといった順になる。これはあくまでもさしあたっての順であり、厳密なものではない。固い硬派から柔らかい軟派への順だ。

 テレビやウェブは、柔らかい軟派なところがある。内容があるテレビ番組であれば固い硬派なのがあるが、そうしたテレビ番組はどんどんその数が減っていて、いまや風前のともし火だ。

 テレビやウェブは柔らかい軟派なところがあるために、それが固い硬派のものに影響を与えて行く。固い硬派のものまでが、柔らかい軟派なものの影響を受けて、柔らかい軟派なものと化す。読売新聞が維新の会の政治家を持ち上げる記事を作ることにはそれが見られる。

 維新の会の政治家や関係者は、テレビにしばしば出ている。それほど用がないのにテレビに出ている。必要で火急とはいえず、不要で不急であってもテレビに出ている。そのことは、客観としてまずいことだとはかならずしもいえず、主観としてまずいと言えるにとどまるものだと言える。構築主義の点からはそう見なすことがなりたつ。

 維新の会の政治家や関係者がテレビにたくさん出ることは、構築主義の点からすると、客観に絶対に許容できないことだとまでは言えないものだろう。テレビでは許容されていることが、新聞ではなぜ許容されないのかとなり、読売新聞は新聞の記事で維新の会の政治家を持ち上げる記事をつくることになった。

 テレビで許容されているのだから、新聞でも許容されてよいはずだとなり、読売新聞では政治家をよいしょする記事が作られた。それは構築主義からすると、客観に絶対に許容することができないほどまずいものだとは言い切れそうにない。人によっては許容できるものではあるだろうが、政治家をよいしょする記事は、客観として見て、報道としての価値があるとは言えそうにない。

 報道としての価値があると言えるためには、政治家をきびしく監視して批判を投げかけるようなものでないとならない。政治家をきびしく監視して批判を投げかけることをして、それではじめて報道機関は仕事をしたのだと言えるものだろう。権力の奴隷や、権力のたいこ持ちになるのだとすれば、報道機関は仕事をしているとは言えず、国家のイデオロギー装置であるのにとどまる。

 参照文献 『共謀者たち 政治家と新聞記者を繋(つな)ぐ暗黒回廊(かいろう)』河野太郎 牧野洋(よう) 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『丸谷才一 追悼総特集 KAWADE 夢ムック』河出書房 『社会問題とは何か なぜ、どのように生じ、なくなるのか?』ジョエル・ベスト 赤川学監訳 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)