五輪と文化のもつ野蛮さ―野蛮への転化

 アウシュビッツのあとにおいて、詩を書くことは野蛮である。アウシュビッツのあとで、文化はすべてごみくずとなった。哲学者のテオドール・アドルノ氏は戦後においてそう言ったという。

 ここで言われている詩は、広く文化だととらえることがなりたつ。この文化の中に五輪を含められるとするとどういったことが言えるだろうか。

 東京都で夏に五輪をひらく。それによって国民に感動が与えられる。感動が与えられるのはあるかもしれないが、そこに野蛮さがあることは否定することができそうにない。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているなかで五輪をひらく。ウイルスの感染が広がっているなかで文化のもよおしである五輪をひらくのは、まちがいなく適したことだとは言えそうにない。

 文化がもつ野蛮さが透けて見えているのが、五輪をひらくことにはある。ウイルスの感染が広がっているなかで五輪をひらくことで、野蛮さがより透けて見えやすい。感動は見えやすく、野蛮は見えづらいが、ウイルスの感染の広がりがおきていることによって、ふつうのときより以上に野蛮さがあらわになっている。

 感動が与えられるのが五輪だが、それはいわば砂糖の甘みのようなものだろう。砂糖の甘みを表面にまぶしているのがあるが、その甘さの中に危なさがあるといったことが言えるだろう。甘さはふつうでいえば味覚としては安全さを意味するものだが、そこに隠されているのが野蛮さであり、苦みが隠されている。苦みをおおい隠すための表面の甘さである。

 野蛮さが五輪にあるといえるのは、五輪は酔わせるもよおしである点だ。酔わせることによって、さめることができなくなる。国との距離が近づいてしまい、距離をとりづらくなり、まひさせられる。国と一体化させられてしまう。

 幻想のまとまりである国と一体化させられやすくなるのが五輪だろう。集団の幻想のまとまりによって人々を酔わせることがねらわれる。ほんとうに人々の個人の幸福(well-being)や社会の福祉(welfare)を高めるために行なわれるのではなくて、現実にあるさまざまな不幸や不正を見えなくさせるために五輪は行なわれる。

 一時においての国との一体感をもたらすのはあるとしても、そのいっぽうで社会の中では排除が進んで行く。社会のなかで排除が進んでいて、それがまん延しているのがある。社会のなかで進んでいる排除の野蛮さを見えなくさせるものが五輪である。

 甘く見れば五輪はよいもよおしだが、きびしく見れば五輪は野蛮である。人々の個人の幸福や社会の福祉を高めるためのものではなくて、幸福や福祉が十分に充実していないことをごまかす。

 幸福や福祉において、体が健康であることは重要だが、五輪は健康によいものではないだろう。体に悪い。人が体を動かすのを見ていても自分が体を動かすわけではないから自分が健康になるわけではない。五輪に出る選手は夏の気候の暑さやウイルスの感染が広がっているなかで運動の競技をさせられるから、体によくない。

 幸福や福祉にはいろいろな穴や抜けがおきてしまっている。その穴や抜けをおおい隠してフタをする。フタをすることによって穴や抜けがあるのを見えなくさせる。そのもくろみによって五輪が上から行なわれる。巨大なフタとしてはたらくのがあり、その下に隠されることになるさまざまな穴や抜けがある。巨大なフタの下に隠されるのが社会のなかで進んでいる排除だろう。きびしく見ればそれが危ぶまれるのがある。

 参照文献 『啓蒙の弁証法テオドール・アドルノ マックス・ホルクハイマー 徳永恂(まこと)訳 『フランクフルト学派細見和之 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司社会福祉とは何か』大久保秀子 一番ヶ瀬(いちばんがせ)康子監修 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『民族という名の宗教 人をまとめる原理・排除する原理』なだいなだ