五輪とかつてのまちがった行動―かつての負の行動をいまとり上げること

 五輪の開会式の音楽をになう音楽家が批判を受けている。音楽家はいぜんに障害者の同級生をいじめていたことを自分で語っていた。

 音楽家はいぜんに障害者をいじめていたのがあるから、五輪の開会式の音楽をになうのにはふさわしくない。そうした声が言われている。その声で言われているように、障害者をいじめた音楽家を五輪に起用することはふさわしくないことなのだろうか。

 人が人を選ぶ。五輪の関係者が、五輪にたずさわる人を選ぶ。そのさいにまちがって適していない人が選ばれることが少なくない。人が人を選ぶのは難しいものだから、人が人を選ぶさいにはまちがいがつきものだ。それは与党の政治家の顔ぶれを見ればほぼ明らかだろう。

 ある人や集団がよくない行動をしたさいには、その行動そのものだけではなくて、それにたいする反応が関わってくる。行動と反応が組みになっているのだ。その行動にたいして批判の声の反応がおきているのであれば、それをまったくないがしろにするわけには行きづらい。

 政治の公正(political correctness)からすると、公共のもよおしである五輪に起用される人は、公正さがあるていどより以上ある人であることがいる。公正さに欠けているところがある人は起用されないほうがよい。

 西洋であれば、日本よりももっと政治の公正がきびしく問われるから、日本よりももっときびしい声が投げかけられるものだろう。日本は政治の公正がそれほど強くは言われないから、西洋と比べると甘いところがある。日本は建て前よりも本音のほうが強くなっている。

 音楽家にたいして、みんながよってたかって私刑(lynch)を加えるのはよくない。いまの価値観から一方的にいぜんのことを批判するのはよいことではない。そうしたことが言われているのがある。

 たしかに、みんながいっせいに音楽家のことを批判すると、大ぜいが一人を批判する形になるから、やりすぎになってしまうことがおきないではない。

 自分からいぜんに障害者をいじめたことを語った音楽家にいることは、社会関係(public relations)と危機管理だろう。音楽家は五輪の開会式の音楽をになうことを引き受けたのだから、公共のことにたずさわることになる。倫理観が問われることになる。

 どこかの会社が何かのことで炎上するのになぞらえられるのがあり、炎上したさいには、他からの声をまったくないがしろにしてしまうのは必ずしも適したことではない。どのように適した形で炎上に応じることができるのかが社会関係では求められる。とりわけ公共のことがらにたずさわるのであればそれが少なからず求められることになる。

 いまの時代は情報の技術が発達しているから、都合が悪い情報を隠しづらい。都合が悪い情報がおもてにあらわれやすい。広く広まってしまいやすい。危機から逃避するのではなくて、危機に対応することがいるようになっている。

 倫理(ethics)によることがいるのが公共のことがらにたずさわるさいにはいり、そこにまずさがあるのであれば、社会関係において炎上がおきることがある。どのような倫理観をもっているのかを明らかにして、それを示して行く。他からの声を受けとめるようにして、双方向のやり取りを行なって行く。改めるべきところがあるのであれば自分のあり方を改めて行く。そういったことをやって行くようにすることが社会関係ではいる。

 いぜんになした負の行動がいまの時点においてとり上げられるのは、交通でいうといまとかつてのあいだのいまかつて間によるものだ。かつてのことが忘却されるのではなくて想起されることになった。かつてのことがふたたび想起されることになったのは、かならずしも悪いことだとは言えそうにない。かつての負のことがらをとり上げることは、呪われた部分と向き合うことだ。一般論でいえば歴史は忘却されるのではなくてできるだけ想起されることがいるものだ。

 罪と罰のつり合いによる矯正の正義からすると、過去になした行動にたいしてどのような罰がふさわしいのかがある。みんなが大ぜいでよってたかって一人の人を叩いてしまうと、私刑になってしまうところがなくはないから、罰として重すぎるといったことがおきかねないのはある。罪と罰のつり合いを欠く。

 できるだけつり合いがとれるようにして、矯正の正義がなされることがいる。叩けば叩くほどよいといったことは言えそうにない。功利主義からすると、罪にたいする罰はできるだけ軽いほうがよくて、重い厳罰ではなくて効果がある軽い罰なのがいちばんのぞましい。重い厳罰ではなくて効果がある軽い罰のほうがいちばん効用は高い。

 罪を憎んで人を憎まずといったことがあるから、いぜんになした悪い行動そのものについては憎むが、人については憎まない。罪と人を分けるようにして、罪は裁くが人はばあいによっては許すといったことがあったらよい。一方的に悪いことを裁くだけではなくて、できればたずねることもあったらよいものだろう。正義とは理性によるのがいるものだから、理性として対話や議論をなす。対話や議論をなす中で正義を回復させて行く。感情に強くよりすぎることで非理性にならないように気をつけたい。

 参照文献 『入門 パブリック・リレーションズ』井之上喬(たかし) 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『功利主義入門』児玉聡(さとし) 『選別主義を超えて 「個の時代」への組織革命』太田肇(はじめ) 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄(おおぬきいさお)訳