ロシアとウクライナの戦争と、戦争の意味あい―事実の空間と、意味の空間

 ロシアとウクライナのあいだで戦争がおきている。

 戦争がおきていることについてをどのように見なすことができるだろうか。戦争についてを、人間による意味づけの点から見てみたい。

 ロシアとウクライナのあいだで戦争がおきていることは一つの現象だ。国どうしで戦争がおきているのは、事実の空間と意味の空間が関わってくる。

 人間ではない野生の動物には、戦争を理解することができない。野生の動物は事実の空間に生きているけど、意味の空間に生きているとは言えないから、人間どうし(国どうし)がやり合っている戦争を理解することができない。

 主体としては、ロシアとウクライナがあり、それらの国どうしが争い合うことで戦争がおきている。主体としての国は、事実の空間であるよりも意味の空間によるものだ。人間がどこかの地域にいるのは事実の空間によると言えるけど、国があると見なすのは意味の空間によるものだろう。

 事実の空間として戦争をとらえられるのだとすれば、おなじ人間どうしが互いに武器を使って争い合っている。人間どうしが暴力をふるい合っている。そこには国どうしの対立が関わってくるけど、国が関わることになると意味の空間によることになる。

 国をめぐって戦争がおきるようなことがないのが野生の動物だ。野生の動物は事実の空間に生きているので、人間のように戦争をおこすことはない。人間は事実の空間だけではなくて意味の空間に生きているので、国どうしの戦争がおきることになる。

 人間は意味の空間に生きているけど、それをはぎ取ってみると、意味の空間の中にある国は、じっさいには無い。野生の動物は、事実の空間に生きているだけであり、人間のようにどこかの国に属しているのではないから、国どうしが戦争をすることがない。

 戦争がおきるのは、人間が意味の空間に生きていることから来ているけど、それをはぎ取ってみると、国はじっさいには無いことがわかる。無いものを有るのだとしてしまっている。事実の空間として見てみれば、戦争がおきているのは、おなじ人間どうしが武器を使って争い合っているのにとどまる。人間が人間に暴力をふるっている。

 なんの意味もなく、ただおなじ人間どうしが暴力をふるい合っているのだと、わけがわからない。気が狂っているだけになる。こうふんしていて、かっとなっていて熱があると、そこに意味があるかのようだ。熱が冷めて冷静になってみると、何の意味もなかったといったことがある。

 かっとなっている中で、ふと、はっとなって、われに返り、冷静になって改めて見てみると、いったい何のためにこんなことをやっていたのだろうといぶかしくなることがある。

 そのものに何かの理由がないと、ふに落ちない。意味の無さに耐えられない。なにかの理由が満たされなければならないから、なにかの理由が充足されることになる。そうすると、意味の空間におけることに当たることになる。これこれしかじかのことのために、なになにのことをやるのだとなる。

 そこの地域に国があって、その国が他の国と行なうのが戦争だと見なすのは意味の空間による。国があって、それで戦争を行なうことになるのは、いっけんするとちゃんと理由があることのような気がするけど、あらためて見ると、事実の空間としては、(ある意味では)戦争は無くて、国も無い。たんにおなじ人間どうしが暴力をふるい合っているだけなのが、事実の空間において言えることだ。

 おなじ人間どうしが互いに暴力をふるい合うことに、いったいどういった意味があるのかは定かとは言えそうにない。そこには何の意味もないといったことも言えるだろう。もしも意味があるのだとすれば、それは意味の空間によることになる。戦争をやることに意味(sense)があるのだとするのは、意味の空間によることだけど、それは無意味なこと(nonsense)なのだとも言える。

 ことわざでは、馬の耳に念仏とか、ぶたに真珠とか、猫に小判と言われる。念仏や真珠や小判は、事実の空間ではなくて、意味の空間によるものだ。念仏や真珠や小判を意味があるものなのだとするのは、人間が意味の空間に生きているからだ。

 戦争は、念仏や真珠や小判のようなものと共通点があり、念仏や真珠や小判の意味がわからなければ、戦争もまたわからず、戦争をやりようがない。念仏や真珠や小判に意味を見いだす人間がやることになるものが戦争なのだと言えそうだ。

 戦争は、音で示せばセンソウだけど、国つまりクニとかセンソウは、たんなる記号でしかなくて、記号表現(signifier)ではあるけど、その記号内容(signified)は、馬やぶたや猫には理解できないものである。クニやセンソウと言われても、その記号内容は野生の動物にはわからない。

 人間もまた、クニやセンソウの記号内容がわからないほうが、戦争をやりようがなくなるから、そのほうがもしかしたらよいかもしれない。人間には戦争の記号内容がわかるから、たとえば、この戦争(いまやっている戦争)には意味があるのだとされてしまう。たとえば、この戦争は正義なのだといったことで、戦争が正当化されてしまう。人間は、クニやセンソウに記号内容を読みとってしまい、文字なり音声なりの記号表現に意味づけを与えてしまうから、それがわざわいすることがおきてくる。

 参照文献 『空間と人間 文明と生活の底にあるもの』中埜肇(なかのはじむ) 『記号論』吉田夏彦 『暴力論』ジョルジュ・ソレル 今村仁司塚原史