パラリンピックで言われる多様性や包摂性や調和と、日本の社会

 五輪がひらかれたあとで、パラリンピックが東京都で夏にひらかれる。パラリンピックでは多様性(diversity)や包摂性(inclusion)や調和(harmony)がかかげられている。

 多様性や包摂性や調和がかかげられているのがパラリンピックにはあるが、それらを改めて見てみられるとするとどういったことがいえるだろうか。それらのどれもが欠けているのが日本の社会だと言えるだろう。

 多様性や包摂性や調和に向かって進んで行っているのではなくて、それらと逆行していっているのが日本の社会だろう。きびしく見られるとすればそう言えるのがある。多様性の逆は一様性や一元性であり、包摂性の逆は排除であり、調和の逆は不協和などがあげられる。

 のぞましいあり方に向かって進んで行っているのではなくて、その逆に一様性や排除や不協和が強まっているのが日本の社会には見られる。パラリンピックでよしとしてかかげられているものとは逆の方向に進んで行っているものだろう。

 たとえパラリンピックをひらいたのだとしても、そこでよしとしてかかげられているのとは逆の方向に向かって進んで行く動きが強いのが日本の社会だから、逆に向かって進んで行くことを止めることはのぞみづらい。方向を転じることはのぞみづらい。

 段階として見てみると、いちばんのぞましいのは多様性による多元性があることだ。その次にのぞましいのが包摂性だ。もっとものぞましくないのが排除だ。

 日本の社会についてを段階として見てみられるとすると、多様性や多元性があるとは言いがたい。いちばんのぞましい段階にいたっているとはおよそ言えないのがある。その次にましなのが包摂性だが、それもまたとられているとは言えそうにない。社会の中からどんどんゆとりが失われていて、ぎすぎすしている。

 いちばんのぞましくないのが排除だが、これが日本の社会では強まっている。社会の排除(social exclusion)がおきているのがあり、そのことがきちんとおもてにとり上げられていない。社会の中で排除がどんどん強まっていて深まっている。深刻化しているのがある。

 いちばんのぞましい多様性や多元性によっていれば、社会がまちがった方向に向かって暴走して行くのを防ぎやすい。多元(plural)であることは、複数性や多であることであり、いろいろなちがった要素があることだ。

 政治においては多元支配(polyarchy)がある。独裁であれば一元の支配(monarchism)だ。poly は多数の意味で mono は一つの意味である。archy は古代ギリシア語のアルケーから来ていて、もととなるものを意味する。もとが一つもなければ無政府状態(anarchism)だ。a は否定を意味して、もとが無いといった意味になる。

 多様性や多元性によっていろいろなあり方があることになり、力が分散されていることで抑制と均衡(checks and balances)がはたらく。その反対にいまの日本の社会では力が集約されているのがある。抑制と均衡がかからなくなっている。

 西洋でいわれる調和があるとはいえないのが日本の社会だ。調和はちがうものどうしが協和して合一することだが、日本の社会では同一性が強い。もともと同一性が強くて同化の圧力が強いから、画一化しているのがある。それぞれの個のちがいがあるのでないと調和がなりたつとは言えそうにない。異質性がいる。

 日本の社会ではそれぞれの個のちがいが認められていないのがあり、それいぜんに個そのものを否定しているのがある。個を否定しているのはもっぱら与党である自由民主党のあり方だ。個よりも集団性が強い。集団の中でみんなが同じようなあり方になり、和のしばりが強くはたらく。同一性による和のしばりは西洋でいう異質性にもとづく調和ではないから、そこを区別しておきたい。

 修辞学でいわれる多義またはあいまいさによる虚偽があるが、多様性の語には多義やあいまいさがあるのがいなめない。意味あいが一義ではないのが多様性だ。そこからうそがおきることになる。ほんとうのところは日本の社会には多様性があるとは言いがたいのがあり、そのことが隠ぺいされることになる。

 多様性をよしとしてかかげていながら、多様性がないことをやっているのがパラリンピックだろう。矛盾しているのである。なぜそれがおきるのかといえば、もともと多様性の語は多義やあいまいさがあるからだろう。うそになりやすいところがあるのだと言わざるをえない。記号表現(signifier)にたいしてどういった記号内容(signified)を思い浮かべるのかが人それぞれによってちがってくるから、そうとうに内容に幅がおきることになり、そこがすり合わないままであれば記号としてうまく機能するとは言えず、ただ雰囲気によるものにとどまる。

 参照文献 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信現代思想を読む事典』今村仁司編 『クラシックを聴け! お気楽極楽入門書』許光俊 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫