日本は、むかしから性の多様性がある国なのか―性の少数者や女性にやさしい国なのか

 もともと日本は、性の少数者にやさしい。古くから性の多様性があった。与党である自由民主党の政治家なんかがそうしたことを言っているが、それは本当のことなのだろうか。

 たしかに、かなり古くまで(前近代まで)さかのぼれば、日本は性の少数者を包摂していたところがあるかもしれない。性の多様性があったのがあるかもしれない。

 かつての日本を見てみると、ずっと(前近代から)男尊女卑ではあった。それがずっとつづいていた。近代に入ってから、男性を優にして女性を劣にするあり方が、上から標準とされるようになった。

 日本の国の歴史の、どこの時点を切りとってみたとしても、つねに男尊女卑だったのがありそうだ。金太郎あめみたいに、どこの時点をとってみても、男尊女卑ではないときはなかった。

 性において、男性と女性が完ぺきに平等だったときはなかった。性においての不平等がありつづけていて、格差がありつづけた。もしかしたら例外の時点はあったかもしれないが、おおむね、男尊女卑だったのが日本の型(pattern)だろう。型だから、それが絶対の真理とまでは言えないだろうけど、だいたいそうしたあり方だっただろう。

 いまの日本はどうかといえば、性において平等化されているとは言えそうにない。性の多様性があるとは言えそうにない。

 性において、女性が排除されたり、性の少数者が排除されたりしているのがいまの日本だ。なぜそうしたことがおきているのかといえば、あるていど以上にいまの日本の経済が豊かなせいだろう。

 経済であるていど以上に国が豊かになってしまうと、目ざすべき目標を失う。何を目ざしてよいのかがわからなくなる。そういったときにおきやすいのが、弱いものを排除することだ。

 何だかんだいって、落ち目になっていたり、右肩下がりになっていたりするのがあるのにしても、経済として日本は豊かである。絶対の貧困はあまり見当たらない。相対の貧困はあるのはたしかである。

 どういうふうにいまの日本の経済のあり方を分析するのかは、人によってちがってきそうだ。人によっては、いまの日本の経済はものすごく悪いとする人もいるだろうけど、それとはちがう見なし方もなりたつ。

 客観とは言い切れないけど、状況としては、日本の経済はそこまで悪くはない。この先はどうかはわからないけど、それなり以上に豊かなのがあり、その豊かさがあだになっている。経済が豊かで、とりあえずさしあたっての食べるものに困らなくなると、逆に弱いものへの排除がおきやすくなる。

 歴史のどの時点をとってみても、つねに排除が強かったのが日本なのだとは言い切れそうにない。まずしい状況のときには、みんなで豊かになるのを目ざせる。みんなで共有できる目標を持てる。そういうときには、弱いものへの排除がややおきづらい。

 いっけんすると、いまの日本は経済があるていど豊かで、みんなにとって住みやすい国であるかのようだけど、そうとは言い切りづらい。いまの日本の状況は、排除がおきやすい。政治においては、野党への排除がそうとうに強くなっている。反対の勢力(opposition)が排斥されている。

 政治において反対の勢力が排除されると、人々のなげきの重みがすくい上げられなくなる。多数者の声は政治ですくい上げられやすいが、少数者の声はすくい上げられなくなり、多数者による専制におちいる。

 性においては、女性や、性の少数者への排除が強いのがあり、性の平等や性の多様性があるとはいえないから、生きづらさがおきているのがある。それぞれの人が置かれている状況しだいによっては、かなり生きて行きづらいのがいまの日本だろう。

 いっけんすると日本の国は経済としてすごい繁栄しているかのようだ。すごい栄えているかのようだけど、そうした全体から受ける印象とはべつに、国の中のあちらこちらから、うつろな声がひびいている。国の中で排除が強いのがあって、そこからうつろな声がおきるのがあり、そうした声が、声なき声にされてしまっている。

 参照文献 『ジェンダー / セクシュアリティ 思考のフロンティア』田崎英明現代思想を読む事典』今村仁司編 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『非国民のつくり方 現代いじめ考』赤塚行雄 今村仁司他 『世界「比較貧困学」入門 日本はほんとうに恵まれているのか』石井光太(こうた) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『右傾化する日本政治』中野晃一 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正