新型コロナウイルスによる社会への負の影響はどのていどになるのだろうか―楽観論と悲観論

 新型コロナウイルスと、それがもたらす日本の社会への負の影響は、はたしてどのようなもの(どれくらいのもの)なのだろうか。

 それについては、たった一つだけの大きな物語ではなくて、いくつかの小さな物語として見られる。

 大したことにはならなくて、やがてわりとすぐに元の状態に回復する。失態があったとしてもとてつもない大きな傷というほどにはならない。これは楽観論の一つだ。

 前と後とで、一つの画期となるような旋回点(ポイント・オブ・ノーリターン)が形づくられるが、それがよくはたらく。ことわざでいう雨降って地固まるのように、社会のあり方がよく改まるきっかけとなる。これも楽観論の一つだ。

 これらの楽観論では、被害を受けた人や犠牲になった人を無視してしまっているから、それらをくみ入れないとならないことはまちがいがない。

 悲観論では、社会への負の影響が大きくて、なかなか立ち直ることができなくなる。元の状態に回復することができづらい。日本の社会がもつぜい弱性やもろさによって、あとにのこるような深い傷を受ける。

 旋回点が形づくられることによって、あとには引き返すことができなくなり、悪い方向に向かって行ってしまう。ことわざでいう後悔先に立たずのようになって、もうちょっときちんとした手だてを打っておけばまだ多少は何とかなったが、それが行なわれなかったとふり返ることになる。

 小さな物語で見て行くことができるとすれば、楽観論や悲観論で見て行くことができるが、それらのいずれもがまちがいなく正しいとは言えなくて、いずれもが反証の見こみをもつ。多かれ少なかれ認知のゆがみがはたらく。どう出るのかは客観には確かとは言えそうにない。

 参照文献 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『反証主義』小河原(こがわら)誠