緊急や危機のときと、批判が投げかけられること―なされている(またはなされていない)ことと批判との関係

 たんなるあげ足とりのような意味のない批判であれば、それが全体の足を引っぱってしまい、そのことによってかえってものごとがうまく進まなくなることもあるかもしれない。

 批判が行なわれることがなくて、みんなでいっしょになって力を合わせて、ものごとがうまく行く。そうしたこともあるだろう。

 批判をしないようにしたり、批判が行なわれなかったりするのだとしても、それによってまちがいなくものごとがうまく行くとは言えそうにない。大きく分ければ可能性は二つあって、批判がないまたは少ないとしても、それでうまく行くこともあれば、失敗してしまうこともある。

 批判がないかもしくは少なければまちがいなくものごとがうまく行くかというと、そうとは言い切れなくて、うまく行かないこともあるから、批判の有無と結果がどうかは、まちがいなく因果関係でかたく結ばれているとは言えないところがある。批判の有無は、結果がどうなるかをまちがいなく約束しているとはいえず、結果に影響を与えるかどうかはわからない。

 批判がなかったり少なかったりするのは、適したものごとの進め方をやっているからだということはある。それはあるけど、それだけではなくて、ほかにも色々な可能性があり、批判が抑圧されていたり、空気を読まされていたり、服従や同調を強いられていたりすることもある。

 なぜ批判の声が投げかけられるのかといえば、それには色々な見こみがある。批判の声が投げかけられるというのを一つの現象だと見なすことができるとすれば、その現象がなぜおきたのかがある。そのわけとしては、まちがったことがおこなわれているから、それにたいして批判の声を投げかけることがあげられる。

 どのような批判の声であったとしてもつねにそうだとは言えないけど、一つの見こみとしては、悪いところや問題があるのを見つけられたことから、その悪いところや問題のあるのをさし示すために批判が行なわれることが中にはある。たんに不毛なあげ足とりにすぎないのだとは頭ごなしには決めつけられそうにない。

 参照文献 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『考える技術』大前研一