日本の国にたいして投げかけられる批判と、日本の悪いところ―日本の全体がすべて何から何までどこもかしこも悪いということを意味するものではない

 日本にたいして韓国が批判を投げかけてくる。二〇二〇年に開かれる東京五輪では、会場に旭日旗(きょくじつき)を持ちこむことについて、韓国はそれを認めるのはおかしいという声を投げかけている。

 日本にたいして韓国は批判を投げかけてくることがあるが、それについて、批判と非難を分けて見るようにしたい。批判というのは、何か悪いところがあって、その悪いところについて、何かわけをがあって悪いのだと言うことだ。それとはちがい、非難をするのは、とくにわけもなく悪く言うことだ。

 日本にたいして批判が投げかけられるのは、日本に悪いところがあるおそれがあることを示す。日本にある悪いところを改めることができれば、日本にある悪いところが減ったことをあらわす。そうできれば、よいことにつながったわけである。

 日本にたいして韓国が言ってくることが、すなわち日本に悪いところがあることには必ずしもならない。日本に悪いところがあるのなら、それを改めてよいほうに変えられればよいが、それは日本に悪いところがあることが明らかになったさいに行なえばよいことだ。

 たとえ日本にたいして韓国が何かを言ってきていても、日本に悪いところがあることが認められないのなら、再反論や再批判をすることがあってよいのだから、肝心なのは、日本に悪いところがあるかどうかをできるだけ正確に確かめるようにすることだ。いいかげんに確かめるだけですませてしまい、日本に悪いところがないとつっぱねてしまうのでは、日本のためになることだとは言えそうにない。

 確認する点としてはいくつかの点をあげられる。日本にたいして韓国が言ってくることで、その言っていることが批判であるか、それとも非難であるかのちがいがある。もし批判であれば、日本としてはそれをまともにとり上げてみるだけの値うちがある。もしかしたら日本にある悪いところをきちんとさし示しているかもしれないからだ。

 日本にたいして韓国が言っていることがたとえ批判になっていたとしても、日本はそれにたいしてものによっては再反論や再批判をすることがあってもよいので、韓国からの批判をいついかなるさいにもそのままうのみにしないとならないということではないだろう。そのかわりに、もし韓国からの批判が的を得たものであるのなら、それを受けとめるようにして、日本の悪いところを改めるようにして、日本をよくするように変えるようにしてはどうだろうか。

 日本の国に批判が投げかけられたさいに、確認する点がいくつかあるが、それらの点をどれだけていねいに確かめて行けるのかが大切だ。確かめることがおろそかになってしまうと、一見するとうまくやりすごせているようでいても、じっさいには日本の国の内に悪いところがありつづけることになって、その悪さが拡大して行ってしまうことになりかねない。悪さが拡大するのを避けるには、確認する点をできるだけ一つひとつていねいに確かめて行くという過程をおろそかにしないことが求められる。

 日本の国はよくて、韓国は悪い、みたいなふうなあり方だと、日本の国はよそからの、または内からの批判をいっさい受けつけないといったことになる。それだと非現実的なあり方になる。悪いところがいっさいまるで無い国というのはおよそありえないことだと言えるからだ。

 日本の国はよくて、韓国は悪い、といったあり方だと、日本にたいしていちいちうるさいことを言ってくる韓国にたいして、ふざけるな、という感をいだくことになる。これだとふつうの遠近法(パースペクティブ)だ。日本は近で韓国は遠というものだ。この遠近法を転化して、遠いものほど近づけるようにする。これがおもてなし(ホスピタリティ)や客むかえである。

 近いものではなくて、遠いものほど近づけてもてなすことに意味あいがある。これはやろうとするとそれなりに難しいことではあるけど、そこまで難しいというほどでもなくて、形だけやってしまう手がある。形だけでもむかえ入れるようにして、形から入って行く。はじめから中身(心)がともなっていなくてもよい。はじめのうちは形に重要性を見いだすということだ。日本の伝統の技芸なんかでも、はじめは型から入ることが行なわれている。

 参照文献 『青年教師・論理を鍛える』横山験也 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司