大臣がツイッターで人をブロックすることは、国民の知る権利を侵害しているのではないか

 国務大臣ツイッターで、自分が気に食わない人(ユーザー)をブロックする。すべての大臣がそうなのではなくて、ツイッターを使っている大臣の中で、ブロックをやたらにする大臣とそうではない大臣がいる。そこから器の大きさ(というか小ささ)が見えてくる。

 大臣がツイッターを使っているのなら、気に食わない人をブロックをしてはいけないのではないだろうか。ブロックをしてしまうと、国民が選別されてしまう。大臣がツイッターで流すツイート(情報)を受けとれる人とそうではない人がおきてしまう。

 同じ税金を支払っているのにも関わらず、大臣にツイッターでブロックされているかどうかによって、受けとれる情報にちがいがおきる。このちがいはとてもささいなことだということもできるが、ないがしろにしてよいことだとはいちがいには言えないことだろう。

 大臣はツイッターを使っていて、自分が気に入らない人をブロックする権利があるのだというのにはうなずきづらい。一般の人であれば、自分が気に入らない人をブロックすることがあってよいことだろう。それとはちがい、大臣であれば、開かれた中で広く国民に平等に情報を示すという意識があることがいる。その意識が欠けているのであれば、大臣としてツイッターを使う資格がないのではないだろうか。

 同じ税金を支払っているのだから、大臣がツイッターで流す情報を受けとることについて、ちがいがおきるのはおかしいことだろう。国民が大臣のツイッターの情報を受けとりたいという意思があるのであれば、その意思がかなうようにして、誰でも情報を受けとれるように開かれているべきだろう。そうでないと公共性において問題がある。

 公共性においては、単一ではなくて複数の声がさまざまに投げかけられることがいる。単一の声だけをよしとするものではない。開かれている(open)ことと、共通すること(common)と、公によるもの(official)が公共性の性質だとされる(『公共性』齋藤純一)。

 国民からたくさんの批判の声がツイッターのツイートで投げかけられるのは、大臣にとってはかなり気にさわるところがあるかもしれないが、ツイッターで大臣からブロックされる人の身にもなるべきである。先まわりして、やたらに人をブロックする大臣であれば、とくにいわれがなく、思い当たるふしがないのに大臣からブロックされてしまう人がおきる。大臣が人をブロックするさいのものさしが変なのだ。

 公共性においては、情報はできるだけ開かれているのがのぞましい。大臣がツイッターで流す情報を、ある人は受けとれて、大臣からブロックされている人は受けとれないということだと、国民どうしが分断されることをうながす。情報に格差がおきる。情報のあつかいについては、できるだけ開かれているようにして、公平になるようにすることがいるのであって、そのことに気を使って使いすぎることはない。

 参照文献 『情報政治学講義』高瀬淳一 『NHK 問題』武田徹