自分の微分化と積分化―自分は(一つではなく)三つあるのだと言われる

 自分は一つではない。自分は三つある。その三つとは、上位の自我と自己と欲動である。精神科医斎藤学(さとる)氏はそう言っている。

 上位の自我とは、欲動を監視するものとされる。上位の自我は、社会でよしとされることを内面化して、こうせよまたはこうするなと命じる。欲動は上位の自我によって見はられていて、色々に命じられていて、それをつきつけられている。

 欲動は、これこれしたいという活力で、それそのものは善や悪を超えているとされる。哲学者の F・ニーチェのいうところの善悪の彼岸にある。だからといって、社会の中で自分の欲動をそのままむき出しにしたら許されるものではないが。自己は、上位の自我と欲動との調整の役をはたす。

 自分というものが、かりに総合または統合されたものだと言えるとすると、それは数学でいわれる積分されたものだ。一つの自分というのがあって、それをいくつかに分けられるとすると、それは微分だ。この微分は、小説家の平野啓一郎氏のいう分人ということでもよいだろう。

 微分化して細かいものに分けて行くのは、デジタルとアナログでいうと、デジタルの発想に当たるものだろう。デジタルの二進数(一と〇)の発想では、できるだけ細かいものに分けて行けば行くほど、もとのものに近づいて行くことができるというふうに言われている。

 微分された自分というのは、いくつかに分けられるものであって、それには上位の自我や自己や欲動がある。また、あるべき自分と現に(すでに)ある自分ということでも分けられる。

 自分の同一性の危機とか、自分の総合や統合の危機がおきると、微分されたそれぞれの自分がばらばらになってしまう。自分というものの総合や統合に失敗する。自分というものに求心性がなくなって、遠心性がはたらく。よいまとまりとしての形態(ゲシュタルト)が崩壊することになる。

 自分とは一人の人間のことだが、その集まりである社会でもまた同じようなことが言えるとすると、社会においても総合や統合の危機がおきることがある。楽観で見れば、社会は何とか一つにまとまっているのだと見なせるかもしれないが、悲観で見れば、社会はその総合や統合の危機に見舞われている。

 自分という一人の人間における総合や統合の危機と、それらが集まった社会における総合や統合の危機とが、相似性をもっていて、フラクタルになっている。自分とは小さい宇宙であるとすると、それが大きくなったものが社会であって、その小と大とのあいだに照応や呼応の関係がはたらく。そう見られるかもしれない。

 参照文献 『家族依存のパラドクス オープン・カウンセリングの現場から』斎藤学(さとる) 『誤解学』西成活裕(にしなりかつひろ) 『微分積分を知らずに経営を語るな』内山力(つとむ) 『現代思想を読む事典』今村仁司