やるべきことがあることと、それがやれないこと―なぜやるべきことができないことがあるのかがちょっとだけ気になった

 やるべきだとされていることがある。それをじっさいにはできていない。このさい、やるべきだとされていることをなぜじっさいにはやることができないのだろうか。なぜ(やるべきだとされることがあるのにも関わらず)やることができないということがおきることになるのだろう。

 やるべきことをがあって、それをやるべきなのだというのは、そうすることによって、何らかの問題が片づくのだととらえられる。このさい、問題があるということが前提条件になっている。

 はたして、問題があるという前提条件はまちがいがないことなのだろうか。もしかすると、問題があるのではなくて、問題が無いとも見られることがあるから、そうなると、まちがいのない前提条件だとは言い切れなくなる。

 問題が無いと見られるのであれば、やるべきこととされていることを、やらなくてもよいことになる。それをやらなくてもとくにさしつかえがないのは、問題がないからである。

 問題があるというのは、討論では、問題の内因性があると言うそうだ。問題があるのは問題の内因性があることで、問題が無いのは問題の内因性が無いことである。問題の内因性があるのか無いのかの、どちらなのかということだ。

 問題があることはまったくもってまちがいのない客観のことだというのは、問題の内因性がまちがいなくあるということである。はたしてそう言い切ることはできるのだろうか。それは必ずしもできないことだろう。

 問題があるか無いかというのは分類にもとづいているので、まちがいなく客観とは言いがたく、そこには主観によるものさしが当てはめられている。そこから、ある人にとっては問題があったり、別の人にとっては問題が無かったりというちがいがおきてくる。

 問題があるとするのは、そのように基礎づけることだが、その基礎づけは揺らがないほどに確かとまでは言えそうにない。問題があるのだと見なすその人(主体)のもつ価値のものさしが当てはめられている。だから、ちがう価値のものさしをもつ人からすると、またちがう見なし方がなりたつ。

 何らかの問題があって、それにたいしてどういうことをするべきなのかという手だてについてもまた、それが最終の手だてとなるものであるかには疑問符がつく。少しも揺らがないほどに確かな手だてだとは言えそうにない。その手だての中にまちがったところがあることは可能性としてゼロではない。

 問題ということを少しだけ解きほぐしてみて切り分けて見てみると、まず問題というのがまちがいなく客観なものだとは言い切れず、主観によるところがいなめない。それはまた問題をどう片づけるのかの手だてについても言えることである。

 はっきりとわかりやすい問題なのであればやりやすいのだが、そういうものばかりが現実にあるのだとは言えそうにない。まず、あるべき状態は何なのかや、いまある状態は何なのかというのが、必ずしもはっきりとはせず、また必ずしも自明ではない。いまが最悪だという人もいれば、いまが最高だという人もいて、それぞれがいまある状態としてそう言えるものだろう。どういう状態であれば最高で、どういう状態であれば最悪かということについても、それぞれでちがってきてしまう。

 いまあるさまざまな問題について、何にもしないで放っておいてもよいのかというと、そうとは言えそうにない。何か手だてを打つことによって少しでも問題を片づけて行かなければならない。そのさいに、問題があるか無いかや、どういう手だてがよいのかということについて、自己決定によるところがあって、大きな物語が通じづらく、小さな物語となるのがある。また、自分が自己決定をするさいに、何らかの物語によっているために、それによるかたよりをまぬがれることができないのがいなめない。物語の効果がはたらくために、多かれ少なかれかたよることになる。

 問題があるのを片づけることなどどうでもよいことだとか、問題を見つけることに何の価値も無いだとかと言いたいのではない。また、相対主義によって、それぞれの人がそれぞれの見なし方のままでいればよい、と言いたいのでもない。

 どういうふうにでも見られるということを言っているのだから、悪い意味での相対主義におちいっているではないかという批判があるとすれば、その批判が当たっていることはまぬがれないが、それについては、民主主義的な開かれた議論によって互いのちがいをていねいにすり合わせることがいるのだと見なしたい。

 試しの精神といったようにして、最終というよりはさしあたってのものだとか、大きな物語ではなく小さな物語であるとか、かたよりがまったく無いのではなくてかたよりのていどのちがいであるとか、そういうふうにやって行くのはどうだろうか。

 試しということがいるのは、たとえば国どうしの対立で、激しくぶつかり合いすぎると戦争になりかねないのを和らげるのに役に立つとよいからだ。みんな仲よくというのは理想というか幻想だが、できればよい形で、小さな物語どうしまたはかたよりのある者どうしということで対立し合ったほうが、激しくぶつかり合うことを避けやすい。

 参照文献 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『武器としての交渉思考』瀧本哲史(たきもとてつふみ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『創造力をみがくヒント』伊藤進