アメリカの大統領選挙で不正があったのかどうかを三つの点から見てみたい―大前提の価値観と、判断のものさしと、当てはめの三点

 アメリカの大統領選挙で不正があった。アメリカのドナルド・トランプ大統領はそう言っている。トランプ大統領が言うようにほんとうに不正はあったのだろうか。そのことについてを三つの点から見てみたい。

 まず一つの点としてはアメリカの大統領選挙で不正があってもよいとするかそれとも無いほうがよいとするのかだ。これについてはトランプ大統領を含めて大かたの人が大統領選挙で不正は無いほうがよく、あってはならないとしているだろう。不正があってもかまわないとしているのではない。

 不正は無いほうがよいと大かたの人はしているだろうから、その大前提となる価値観は大かたの人が共有し合っている。その点についての価値観のちがいがあるとは言えそうにない。

 一つの点としては見かたを共有し合えているが、残りの二つの点で見かたのずれがおきている。ずれがおきているのは、どのように判断をするのかのものさしと、それの当てはめだ。

 判断のものさしを当てはめることによって、不正があったとしたり無かったとしたりすることになる。不正があるとするのは分類づけすることだから、そこに解釈が入りこむ。解釈のもととなるものさしがあり、そのものさしを当てはめることによって不正があったとするのであればそのような分類づけを行なう。

 判断のものさしによる分類づけでは、何が不正に当てはまり、不正であると分類づけされることになるのかの質と量がある。不正の分類づけをするのには、不正とは何かの質と量(集合、範ちゅう)があるから、その質は何なのかを明らかにして行きたい。

 どういうことが不正に当てはまるのかの分類づけのもとになる質を明らかにして行く。それができていないと、不正とは何なのかの質が不明なままになってしまう。どういうことが不正の分類づけに当てはまり、どういうことがそれに当てはまらないのかが定かにはならない。

 みんながアメリカの大統領選挙で不正があったのだとしているのであれば、みんなが同じ分類づけをしていることになる。じっさいにはそうではなくて、不正はとくに無かったのだとする分類づけも行なわれている。そこで意見の異なりがおきているが、そのさいに不正の分類づけをするさいの不正の質と量をはっきりとさせるようにして、不正の質とは何かを定めて行きたい。

 何が不正の分類づけに当たるのかの質が不明なままだと、お互いのあいだの前提条件がずれたままになる。前提条件がずれたままだと議論がなりたたない。議論がなりたたないと生産的ではないから、まずは議論をなりたたせるようにするためにお互いのあいだの前提条件をすり合わせるようにしたい。

 目の前にたとえばなにか具体の果物のりんごがあるとすると、それは目で見てわかることだから前提条件のずれがおきづらい。それとはちがい大統領選挙の不正となると果物のりんごがあるかどうかのような目で見てわかる単純な話とはちがってくる。そこから分類づけのちがいがおきてくる。人それぞれによって分類づけをするさいのものさしのちがいがおきてくる。

 目の前にりんごがあるかないかであれば、目で見てわかることだから分類づけのちがいはおきづらく、分類線の揺らぎはあまりおきない。それよりも複雑な話になるのが大統領選挙で不正があったのかなかったのかだ。りんごがあるかないかとはちがって分類線の揺らぎがおきてくる。はっきりと一か〇かや白か黒かには分けづらい。

 分類線の揺らぎがおきてくる中で、三つの点を確かめてみるようにする。一つの点である、大統領選挙で不正があってはならないとする大前提の価値観については大かたの人が共有し合うものだろう。だからその点についてはとくにまずいところはないだろうが、残りの二つの点についてはまずさを抱えている。

 残りの二つの点では、どういうさいに不正だと分類づけをすることになるのかの不正についての質と量がある。不正についての質をはっきりと定めることに失敗していると、質がはっきりとはしないままにとにかく不正があったのだと(またはなかったのだと)分類づけをすることになる。質をはっきりとさせることに失敗しているといい加減な分類づけになるのがあるから、分類づけがまちがっているおそれがある。少なくとも一〇〇パーセントの完ぺきさをもった分類づけだとは言えそうにない。

 目の前にりんごがあるかないかのような単純なことであれば目で見てわかることだから分類づけのまちがいはおきづらい。それとはちがって大統領選挙で不正があったのかなかったのかでは複雑さがあるから分類づけのまちがいがおきる確率はそれなりにある。まちがいの確率がそれなりにあることから、三つの点のそれぞれを確かめて見るようにして、できるだけていねいに見て行くようにして行く。ていねいさがなくて、ただたんに不正があったのだと(またはなかったのだと)分類づけをするのだと、りんごがあるかないかのような単純な話にしてしまう。

 りんごがあるかないかのようなわかりやすい話ではなくて、もっとわかりづらさがあるのが大統領選挙で不正があったのかなかったのかだ。そこでりんごがあるかないかのような見かたをしてしまうとまちがうことがおきてくる。りんごがあるかないかであればりんごには具体性があるからわかりやすいが、大統領選挙の不正となるとりんごのような具体性ではなくて抽象性をもつ。りんごには触知可能さ(tangible)があるが大統領選挙の不正にはそれがない。

 りんごがあるかないかのように前提条件にずれがおきづらいことではなくてそこにずれがおきやすいのが大統領選挙で不正があったのかなかったのかだ。前提条件にずれがおきやすいことをくみ入れるようにして、そのずれをそのままにしておかずにそれを和らげるようにして行く。ずれているのをすり合わせるようにして行く。ずれたままだと、りんごでいえばりんごがあるとするのとないとするのとのあいだで平行線になることがつづく。りんごがあるかないかでは目で見ればわかることだからそうした平行線になることはおきづらいが。

 参照文献 『人を動かす質問力』谷原誠 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『記号論』吉田夏彦 『論理表現のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『リベラルアーツの学び 理系的思考のすすめ』芳沢(よしざわ)光雄 『現代哲学事典』山崎正一 市川浩編 『語彙力を鍛える 量と質を高める訓練』石黒圭 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『新版 ダメな議論』飯田泰之(いいだやすゆき)