アメリカの大統領選挙で不正があったのかどうかと、人それぞれがもつ不正義の感覚のちがいとそれからおきるもめごと(紛争)

 アメリカの大統領選挙で不正があった。選挙が盗まれた。アメリカのドナルド・トランプ大統領はそう言っている。トランプ大統領が言っているようにほんとうに大統領選挙で不正はあったのだろうか。そのことについてを正義と不正義の点から見てみたい。

 大統領選挙で不正があったとするのは、そう見なす人が自分の不正義の感覚をあらわすことだ。自分がもっている不正義の感覚をおもてにあらわす。これはおかしいとかこれは悪いと見なす。何についてを不正だと見なすのかは人それぞれによってちがう。正義は価値で不正義は負価値だが、それぞれの人がこれには価値があるがこれには価値がないとすることには相対性がある。主観性による。

 何についてを許容できて何についてを許容できないのかが人によってちがう。許容できることであればそれほど感情は高まらないが許容できないことであれば感情が高ぶる。感情が高ぶることで冷静ではいられづらい。感情が高ぶることは必ずしも悪いことではなくてそれが必要な面がある。それによって完ぺきに冷静さを失ってしまうようではまずいが。感情だけによるのは弱くて熱しやすく冷めやすいところがあり、科学のゆとりをもつことが欠かせない。

 人それぞれによって何を不正だと見なすのかの不正義の感覚がちがっていることから、何が不正で何が不正ではないのかの分類線が揺らいでいる。ある人から見れば不正だと見なせることが、別な人から見ればそれほどでもないことに映る。不正だと受けとめるかそうではないと受けとめるかの分類づけにちがいがおきてくる。

 不正であるとする人もいればそうではないとする人もいると、そこにもめごと(conflict)がおきてくる。そのもめごとをなんとかして行く。そのためには力を持つ者が力を持たない者を一方的に押さえつけるのではないようにしたい。力を持たない少数者や弱者のことをとり立てて行く。そこでいるのは自分たちと近い者ではなくて遠い者にたいするよき歓待や客むかえ(hospitality)だ。

 力を持っている者が力によってもめごとを力づくでなんとかして行くのだと、もめごとのもとにある争点が片づきづらい。もめごとがおきているさいにはそのもとにある争点を明らかにしていってそれを片づけて行くようにすることがいる。そのためには力を持つ者が力をふるうことによって力づくでなんとかして行くのではなくて、力を持たない少数者や弱者に歩みよって行く。少数者や弱者のことを認めるようにして行く。よき歓待や客むかえをなす。そうしながら争点を明らかにしていってそれを少しでも片づけて行くようにしたい。

 アメリカの国の中では大統領選挙についてだけではなくて、さまざまな人たちによってさまざまな不正の感覚があらわされているものだろう。それらのいろいろな不正があることのうったえを切り捨てないようにしたい。とりわけ大切なのが力を持たない少数者や弱者による不正のうったえを十分にすくい上げて行くことだ。力を持つ者や多数者の声ばかりが大きくて、少数者や弱者のうったえが切り捨てられてしまうようでは、その社会は正義によるとは見なしづらいものだろう。

 社会が健全であるためにいることとして、安心や安全と正義や公正と自由の三つがある。学者のエーリッヒ・フロム氏はそう言っている。アメリカの国ではこの三つが損なわれているところがあるために、社会の中で人々の不満やうっぷんがたまっている。社会が健全さを失っているところがある。それがおきているもとにあることの一つとして経済では資本主義によって持つ者と持たざる者とのあいだに格差が開く。経済の格差が社会にとってわざわいして悪くはたらく。そうしたまずさがある。

 大統領選挙の話とはずれてしまうのはあるが、そこにおいて不正があったのだと言われることのもとにあるものとして、アメリカの社会が抱えているまずさがある。そう言えるのがあるとすると、社会の健全さが損なわれていて不健全になってしまっているのを改めるようにしたい。社会の健全さが損なわれて不健全になっているとその社会は危ない方向に向かいかねない。

 社会の中に色々なまずさがあるのだとすれば、それは国家主義(nationalism)によって国家をよしとすることだけでは何とかなるものだとはしづらい。国家主義では国家の公が肥大化してしまうが、そうではなくて個人の私を充実させて行くようにしたい。たとえどのような個人であったとしてもみなが平等にとりあつかわれるようにして、そこに階層(class)の格差がおきないようにして行く。

 どういう個人であるのかによって階層の格差がおきてしまうと個人が不平等なあつかいを受ける。自由主義(liberalism)でよくないものだとされている普遍化できない差別がおきてしまう。そうした差別を改めて行くようにすることが、アメリカだけではなくて日本の社会を少しでもよくすることにつながって行く。

 アメリカでも日本でもどちらの社会においても自由主義が損なわれているのがあるとすると、それを改めるようにしていって自由主義によるようにして行く。そうして行くことで社会の健全さが損なわれているあり方から健全さによるようにして行く。何らかの形で社会が不健全になっていることに歯止めをかけてそれを改めるようにしないと、全体がどんどんまちがった方向に向かって進んでいってしまいかねない。安心や安全と正義や公正と自由の三つが社会の中にあるようにして行く。階層の格差がおきないようにして、すべての個人がみな平等にそれらの三つによれるようにする。それが肝心なことなのではないだろうか。

 参照文献 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『正義 思考のフロンティア』大川正彦 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司 『公私 一語の辞典』溝口雄三