結果論(帰結主義)と動機論の二つの点による万博の評価づけ : あとになってほんとうにやってよかったなと思えるのか

 やってよかった。やったあとでは、みんながそう思う。多くの人がそう思うはずだ。五輪と同じように万博もきっとそうなる。テレビ番組の出演者はそう言っていた。

 二〇二五年に行なわれる万博は、みんながやってよかったと思うようなものになるのだろうか。

 もよおしが行なわれたあとになって、それをやってよかったと思う。やってよかったなと思うのは、結果論によるものだろう。帰結主義である。

 結果論の反対に当たるものとして動機論がある。また、義務論もある。手つづきの正義だ。

 結果論で見てみると、まだ万博は行なわれていなくて、準備している段階だ。まだ準備中ではあるけど、先どりする形でとらえてみると、あとになってそれをやってよかったと思えるようになるとは限りそうにない。

 五輪もそこまでやってよかったと思えない。そこまで強くはやってよかったと思えないところがある。その五輪よりもさらに劣り、それよりも下回ることになりそうなのが万博だ。

 比較してみると、五輪でさえも、そこまでやってよかったとは思えない。そんなにすごくやってよかったなとは思えないのがある。万博は、それよりもなおさらそう思えなさそうだ。五輪よりもさらに劣るのである。

 結果論や帰結主義で見て、あまり良くないものなのが万博だろう。そのうえ、それにくわえて、動機論で見ても良いとは言えそうにない。動機論で見ても悪いところがあるのが万博だろう。

 どういう動機(motivation)によって万博が行なわれるのか。おもに、大阪で力をもつ、野党の日本維新の会(第二自由民主党)の利益のためだろう。維新の会が利益を得るために万博が行なわれる。よこしまな動機によっているところが小さくない。動機がまっとうとは言いづらい。

 手つづきのところを見てみると、万博を行なううえでの責任の所在があいまいだ。だれが責任者であり、だれが決定者なのかが明らかではない。いつのまにか万博をやることが決まった。そういったふうだろう。いつのまにか既成の事実にされてしまったのである。既成の事実となったものに弱いのが日本人だ。

 手つづきの正義が満たされているとは言えそうにないのが万博だろう。無責任の体系によっているもよおしだ。

 三兆円もの経済の効果が見こめるのが万博だ。そう言われているのがあるけど、それは万博の質(実質)が良いとするものだ。実質としてのよし悪しによる実質論である。結果論や帰結主義によるものである。

 結果論や帰結主義だと、よくわからないところがある。たとえ動機論から見て動機が悪かったとしても、結果さえ良ければそれでよいのだろうか。動機はうんと悪くても、結果さえ良ければ許されるのだろうか。そうとは言い切れそうにない。

 手つづきの正義をできるかぎり大事にするようにしたい。そこを大事にするようにしてみると、そこが不正なのが万博だろう。手つづきのところに不正があるからこそ、それほど人々からの正統性(legitimacy)を得られていない。万博に反対する声が少なくないのである。

 人々からの自発の服従の契機をそれほど得られていない。人々からの自発の服従をそれほどには調達できていないのである。服従であるよりも、反抗がおきているのが万博だろう。対抗がおきている。

 西洋の哲学の弁証法(dialectic)で見てみると、そのままの形での万博は、必ずしも通じづらい。そのままでは通じづらいのは、それに対する対抗がけっこうおきているからだ。

 対抗がけっこうおきている中で、むりやりに、そのままの形で万博をやろうとするのだとしても、うまく止揚(aufheben)した形では万博をなすことはできそうにない。止揚(しよう)がひどく困難になっているのが万博だ。矛盾が浅くない。矛盾を解決することなのが止揚だ。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組 体は自覚なき肯定主義の時代に突入した』須原一秀(すはらかずひで) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫現代思想を読む事典』今村仁司編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『功利主義入門』児玉聡(さとし) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『法哲学入門』長尾龍一