内への帰属 対 外への帰属:安倍元首相のあり方についての考察

 安倍派とは言うな。そう呼ぶべきではない。政治で、うら金(がね)のことがとり上げられているが、安倍晋三元首相のことを悪く言うことになっている。安倍派と言うことによって、安倍元首相を悪く言うことにつながっている。

 安倍派は悪いのだとしても、安倍元首相は悪くはないのだろうか。安倍派も悪くて、安倍元首相も悪いのだろうか。または、安倍派も安倍元首相も悪くはないのだろうか。

 何が悪いのか。だれが悪いのか。それがある中で、自分は悪くない。自分たちは悪くはない。ほかのものが悪いのだ。そのあり方によっていたのが安倍元首相だろう。

 帰属(attribution)のさせ方がある。特定することだ。(因果の関係の)原因を帰属させる。内への帰属だったら、自分が悪いのだとすることになる。自分が悪かった。ほかのものが悪いのではない。

 外への帰属であれば、自分は悪くはない。自分たちは悪くはなくて、ほかのものがぜんぶ悪いのだ。

 国では、中国なんかは、外への帰属によることが多い。中国は、自国が悪いとはしない。ほかの国が悪い。日本が悪い。アメリカが悪い。そのようにすることが目だつ。

 具体の国として中国がある。具体論だ。そうではなくて、抽象としての中国がある。抽象論だ。

 抽象論によってみると、国ではないけど、人としては安倍元首相は中国と似ていた。国ではアメリカなんかも、抽象論としては中国に似たところがある。中国とアメリカはどちらも大国だ。アメリカにかぎらず、どこの国でも多かれ少なかれ中国に似たところをもつ。

 中国は外への帰属によることが多い。国ではなくて人だけど、安倍元首相はそれにそっくりだった。内への帰属によらず、外への帰属によることでは、中国と安倍元首相はたがいに似ている。

 右派だから反中(反中国)であったようでいながらも、反中ではなかったのが安倍元首相である。じつは親中(親中国)だった。

 因果の関係では、原因を内に帰属させるか、それとも外に帰属させるかがある。個人(内)の要因か、状況(外)の要因かだ。

 日本の政治のうら金のことでは、安倍派が悪いのだと言わざるをえないだろう。安倍派ではないほかのもの(野党など)が悪いとはしづらい。自由民主党の最大の派閥(はばつ)である安倍派をはじめ、自民党の派閥の悪さがある。政治家(屋)の悪さもある。

 そう言われているだけなのが、安倍派だ。そのように呼ばれているのにすぎないものである。名前が安倍派となっているだけであり、安倍元首相そのものとはちがう。安倍派つまり安倍元首相なのではない。

 同じものであるよりも、ちがうものなのが安倍派と安倍元首相だ。ちがうものであることから、安倍元首相は悪くはなかったのだとすることがなりたつ。良いものだったのが安倍元首相なのだとされている。

 ほんとうに良いものだったのが安倍元首相なのかといえば、そこには強いうたがいを持てる。良いものだったのが安倍元首相だったのだとするのは、そのまま丸ごとうのみにはしづらい。たんに、因果の関係で、外への帰属にしているだけだろう。ちょうど中国が外への帰属をよくやるのにひとしい。

 どういうふうにしなければならないのかがある。何でもかんでもほかの国のせいにするのが中国にはあるけど、それはよくないあり方だ。悪いことがあったさいに、何でもかんでもほかの国のせいにするのではなくて、中国は自国が悪さを引き受けるようにするべきだ。

 中国があり方を改めることがいるのと同じように、安倍元首相もあり方を改めなければならなかった。外への帰属によりすぎるのを改めることがなければならなかった。それが見て取れるのが、安倍派のうら金のことである。あいかわらず、安倍元首相について、外への帰属がなされているのだ。そこに悪さがあるのだとしてみたい。

 参照文献 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司(みちたやすし) 宮元博章(みやもとひろあき) 『うたがいの神様』千原ジュニア 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)