五輪と集団の心理―個人に比べて集団のほうがより危ないことがある

 安全で安心なものにする。五輪についてをそうするのだと言っているのが政権だ。政権が言っているように五輪を安全で安心なものにできるのだろうか。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているなかで東京都で夏に五輪をひらく。政権は五輪をひらこうとしているが、そこに見うけられるのは危険性への移行(risky shift)と集団思考(groupthink)だ。

 集団と個人を比べてみると、集団でものごとを決めるときのほうがより危険性をとってしまいやすい。集団でものごとを決めるときには危険性への移行がおきやすい。より危険性があるかたちでものごとを決めることがおきてしまう。

 西洋では個人主義によるのがあるが、日本は集団主義が強い。集団主義が強いのが日本だから、集団においてものごとを決めるさいに、集団の和のしばりが強くはたらく。危険性への移行がおきやすくなる。集団思考によって空気を読んでそんたくすることがおきる。まちがったことが決められるおそれが高まることになる。

 個人主義がとられているなかで、個人がものごとを自由に決めて行く。あるていどの危険性があることがわかっていて、それをやるかどうかを決めて行く。個人の自由な選択にゆだねられているのであれば、選択の責任が個人に属していることがわかりやすい。危険性があることをくみ入れたうえで、それをやるかそれともやらないのかは個人が自由に選択してよい。たとえどういう結果がおきても個人がそれを引きうけることになる。

 個人によるのではなくて集団によるときは、集団のなかで空気がおきることになる。集団のなかで空気がおきて、その空気を読むようになる。空気を読んでそんたくすることが行なわれる。集団思考がはたらく。

 日本の国がやることなのだから大丈夫だろうとか、国が力を入れてやることなのだから大丈夫だろうといったことは必ずしも言えそうにない。それが必ずしもいえないのは、一つには効率性と適正さのかね合いがあるからだ。

 ほんとうに十分にしっかりとしたやり方でやるのであれば適正さがある。適正なやり方でやると、うまみがなくなってしまう。得られる利益がなくなってしまう。少しでもうまみや利益を得ようとする動機づけ(incentive)がはたらくから、適正さが損なわれることになる。適正さよりも効率性をとることになる。適正さよりも効率性をとることの方により強い動機づけがはたらく。

 国が何かをやろうとおもえば、たいていのことはできてしまうものだろう。国家の公は個人の私のことをおろそかにする形でものごとを行なうことができる。個人の私をおろそかにしてでも国家の公がやりたいことをやって行く。そこに危険性がある。

 国家の公はその地域の暴力を独占しているから、さいごには暴力にうったえてでも国家の公がやりたいことをやろうとすることができる。言うことをきかない個人の私に暴力をふるってでも言うことをきかせられるのが国家の公である。

 力(might)によってものごとをおし進めて行くことができやすいのが国家の公であり、そこで欠けることになりやすいのが正しさ(right)だ。国家の公が力によってものごとをおし進めて行くさいに、国がやることなのだから大丈夫だろうとは見なせないことは少なくない。かえって力をもつ国家の公がやることだから危ないのがあり、危険性への移行や集団思考がはたらいてしまう。

 暴力をもつことからくる国家の公の危なさがあり、その危なさを和らげるためには、憲法立憲主義がしっかりときいていないとならない。日本ではいまは立憲主義がそうとうにこわされている。立憲主義がこわされてしまっているのがあるために、国家の公が肥大化しているのである。集団が危険性をもちやすくなっていて、集団思考がはたらきやすくなっている。

 五輪をふくめて、安全や安心にするためには、国家の公の肥大化を防いで行く。国家の公が肥大化しないようにして、個人の私が守られるようにして行く。その逆に、国家の公がどんどん肥大化していっていて、個人の私がどんどんやせ細っていって削られて行くのだと危ない。日本は安全や安心ではなくて危ない方向に向かっていっているのだと見られる。

 参照文献 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『法哲学入門』長尾龍一 『正しさとは何か』高田明典(あきのり)