反日が五輪に反対しているのか―なぜ反日がもち出されるのか

 反日の歴史の認識をもつ。五輪に反対しているのはそうした人たちだ。朝日新聞社日本共産党は五輪に反対の声をあげている。与党である自由民主党の前首相は、雑誌の対談の記事のなかでそう言ったという。

 前首相が言っているように、反日すなわち五輪に反対なのだろうか。反日であることと五輪に反対であることは、必要十分条件となることなのだろうか。

 必要十分条件とは、反日であることと五輪に反対であることの二つでいうと、反日ならば五輪に反対でありかつ、五輪に反対ならば反日であることだ。反日であれば五輪に反対であることを含意して、なおかつ五輪に反対であれば反日を含意する。

 政治においては、反対の声をじっさいにあげないとすべて賛成にくみ入れられてしまう。声をあげないと賛成していることになってしまう。声をあげていない人が賛成しているのかと言えばそうとはかぎらない。声をあげていなくても心の中では反対していることがある。

 反対の声をあげていない人たちをすべて賛成していることにしてしまうのはやや乱暴だ。声をあげることは形として外にあらわすことだが、たとえ形にしないのだとしても、心の中でもやもやとしたものがうず巻いていることがある。まだ具体の形にはなっていないのだ。反対の可能性を宿しているのである。

 公共性においては、個人がいろいろなちがう声を発せられることがいる。個人が反対の声を自由にあげられるのでないと公共性によるとは言えそうにない。たった一つだけの声によっていて、反対の声をあげることがいっさい禁じられているのであれば、そこに公共性があるとはいえない。

 前首相がいっている反日の歴史の認識をとり上げてみると、それと反対に当たるものは愛国の歴史の認識だ。愛国の歴史の認識は、短期の利益を追おうとするものだ。長い目で見ると愛国の歴史の認識は否定されることが多い。長い目で見たら通じないことが多いのが愛国の歴史の認識なのである。

 国はよいものだといったことから出てくるのが愛国の歴史の認識だ。国は善だとする。国に善の含意をもたせるのは適したことだとは言えそうにない。どのようなときであったとしても国は善だとは言いがたい。どんなときでもどんな人にも国は善だとはいえないので、たとえ国はあるのだとはいえても、それにたいして客観によい価値をもたせることはできないだろう。国がどのような価値をもっているのかは人それぞれでちがうし、よいと悪いが混ざり合っている両価性(ambivalence)によるものだろう。

 近代の中性国家の原則では、国が価値を国民に押しつけないようにすることがいる。国は国民の内面や内心に介入しないことがいる。国のことをよいとしようが悪いとしようが、それは国民の自由にまかされていることだ。国のことをよいとせよとか善とせよとして国民に一方的に押しつけるのだと、中性国家の原則に反する。国はよいところもあれば悪いところもいろいろにあるのだから、よいとか善とばかりは言えないものだ。できるかぎり中立なものであることがいる。

 たとえ反日の歴史の認識をもっていたとしても、そのことと五輪に反対の声をあげることとは分けて見てみたい。反日が五輪に反対しているとするのだと、修辞学でいわれる人にうったえる議論におちいる。反日がこう言っているからまちがっている、といったことになる。

 反日と五輪に反対するのとを分けるようにして、いっしょくたにはしないようにしたい。いっしょくたにする理由はとくにない。反日であるのは置いておいて、五輪に反対することはあくまでも五輪に反対することとして見るべきだろう。そこに反日であることを混ぜると、ほかのものといっしょくたにすることになり、修辞学でいわれるくん製にしんの虚偽(red herring)におちいる。論点がずれてしまう。

 五輪を行なうことは、かならずしも自明なことだとは言えそうにない。五輪をやることが自明なことだとするのは、それをやるのが当たり前だとすることであり、神話作用がはたらく。

 いまたまたま新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がってしまっている。それはあらかじめ完全に予測できたことだとは言えそうにない。それと同じように、日本の東京都で夏に五輪をひらくことは、たまたまそれをやらざるをえなくなっていると言えるものだろう。

 東京都で五輪をひらくことは、それをしなくてもよいことであったはずだ。しなくてもよいのを、たまたまするはめになっているのである。なにかの手ちがいやまちがいで東京都で五輪をやるはめになっている。完ぺきに正しいのではなくて、まちがっているおそれがあるのは否定できない。

 哲学の新カント学派の方法二元論によって、事実と価値を分けて見てみたい。東京都で五輪をやらざるをえないのは事実に当たる。五輪をやることになっているのは事実ではあるが、それだからといって何が何でもやるべきだとは必ずしも言えそうにない。

 やることになっている事実があるのだとしても、それをやるべきだとはかぎらず、やらないようにするべきであることも中にはあるだろう。やることになっていることがそもそもまちがっていることがある。いちおう可能性としてはそうしたことがある。

 事実と価値を分けて見てみられるとすると、事実を知ったところでそこから価値は出てこない。価値はまた別の話である。反日であることや、五輪に反対の声をあげることは、それが事実であるのだとしても、そこから価値が自然に自動で出てくるのだとは言えそうにない。価値はまた別の話だから、別なものとして見て行くことがいる。

 五輪をひらくことになっている事実から、それをまちがいなくやるべきだといった価値が出てくるとはいえないところがあり、それは反日や五輪に反対することにもまた言える。事実と価値を切り離して見てみるとそう言えるのがあり、反日や五輪に反対することが価値をもつことはありえることだろう。

 五輪に反対することを排除してしまうと、五輪が暴力によることになってしまう。五輪が暴力によるのではないようにするには、五輪に反対することを排除せず包摂するべきである。暴力によらない平和なあり方であるためには、敵に当たる反対の者を客むかえ(hospitality)して行きたい。敵を排除するのではなくてよき歓待によって客むかえすることは難しいことではあるが、暴力によらない平和につながることだ。

 五輪はよいものだとするのは、五輪を一面から見たさいのものにすぎない。それと同じように、反日や五輪に反対するのを悪いものだとするのは、それらを一面から見たものにすぎないものだろう。一面から見るだけではなくて、もうちょっとちがう面をいろいろに見ることがあったらよい。いろいろなちがう面を見ていってみれば、五輪はそれほどよいものだとは言えなくなるし、反日や五輪に反対することはそれほど悪いことだとは言えなくなる。

 たとえよいものだと見なすのだとしても、それは五輪がかかえる悪いところを切り捨てて捨象していることによる。悪いところを捨象したうえでなりたつのが、五輪はよいとすることだ。愛国の歴史の認識にもそれと同じことがいえて、日本の国がもついろいろな悪いところを捨象したうえでなりたつものである。その捨象しているところをすくい上げることが反日である。

 反日が悪いのであるよりは、捨象することが悪いのであり、それによってよいものだと見せかけているところに悪さがある。見せかけることによってよいことそのものだとするのではなくて、そのよさをさし引いて行くことがいる。よいことそのものだとするのではなくて、よさだけではなくて悪さもいろいろにあることを見て行くことが必要だ。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『論理パラドクス 論証力を磨く九九問』三浦俊彦 『思想の星座』今村仁司 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一 『歴史学ってなんだ?』小田中(おだなか)直樹 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦(かりやたけひこ)