五輪と感動―感動をもたらすことはほんとうにすばらしいことなのか

 運動選手が五輪でがんばることで、感動を与えてもらう。運動選手が運動をすることで、人々に感動をもたらす。与党である自由民主党の政治家は、そのことがあたかもよいことであるかのように言う。

 自民党の政治家がいうように、運動選手が人々に感動を与えることはよいことなのだろうか。運動によっておきるとされる感動についてを脱構築(deconstruction)してみたい。

 五輪では運動の競技が行なわれるが、そこでは競争で勝ち負けが決められる。そもそもの話としては、五輪は参加することそのものに意味あいがあるものだとされている。参加することそのものに意味あいがあるのだとすれば、勝ちや負けは二の次のはずだ。

 参加することを見てみられるとすると、五輪に参加することそのものはとくに感動を引きおこすものだとは言えそうにない。五輪に参加できるかできないかは、参加することができない、または参加しない人がいることではじめて参加する人がなりたつ。参加できない、または参加しない人のほうが、参加する人よりもより重要だともいえる。

 みんながみんな五輪に参加したい人たちばかりではない。参加したくてもできない人もいる。選別されて、それにかなった見あう人だけが五輪に参加できる。そのさいに、ほんとうに選別が適正に行なわれているのかどうかは確かとは言えない。人間がやることだからまちがいを含む。それからすると、五輪はみんなを包みこむようなもよおしだとは言えそうにない。かなり限定されたものにすぎない。五輪に参加することにそこまで価値があるのかは定かではない。一部の人たちのためのもよおしだと言えるかもしれない。

 五輪に参加して、そのなかで競技をして勝ち負けを決めるさいに、だれかが勝ってだれかが負けることになる。競争でやっかいなのはだれかが勝たなければならないことだと作家のジョージ・オーウェル氏は言っている。

 競技が行なわれればだれかが勝ってだれかが負けることになるが、ことわざでは負けるが勝ちと言われている。関係主義によって見てみられるとすると、負ける人がいてはじめて勝つ人がなりたつ。負ける人がいなければ勝つ人はいない。負ける人が勝つ人を支えているのだ。負ける人のほうがより価値があるとも言えないではない。

 あるものさしを当てはめてみたさいに、勝つことに価値があるとされて、負けることには価値がないのだとされる。ものさしが当てはめられる枠のなかで競い合う。枠のなかでいかにほかの人よりもより優位に立てるのかを競う。枠の中においては、そのなかで通用するものさしが当てはめられるから、そのものさしに照らして勝つことには価値があるとされて、負けることには価値がないのだとされるのにすぎない。

 枠の中にいて、そのなかで通用している一つのものさしをを当てはめるからこそ、勝ったり負けたりのちがいがおきるのだ。枠の外にいるのではないから、枠の中にいる者どうしである点で、勝つにせよ負けるにせよ互いに共通点をもつ。相違点だけによるのではない。相違点だけだったら互いを比べられないから順位をつけられない。勝つことと負けることとのちがいは、そこまでのものとはいえず、そのあいだに引かれる分類線は揺らぐ。

 枠の中では激しい競い合いが行なわれているのがあるとしても、枠の外に出て見てみれば、枠のなかで行なわれていることは人為に構築されたものにすぎない。枠のなかで行なわれる競い合いは、それを枠の外から見てみられるとすると、人為に構築されたものでありつくられたものだ。つくられた感動であるといえるものだろう。

 枠の中でのつくられた感動に乗っかることは悪いことではないけど、それに乗っからないこともまたあってよいことだろう。つくられたものよりも、つくられていないもののほうがよりよい。つくられている度合いが高いものよりもより低いもののほうがよい。そのような見なし方もできるだろう。

 つくられている度合いが高いものよりも低いもののほうがよりよいのは、テレビの画の映りのために編集されているのがあるためだ。国の政治や商売に都合がよいようにものごとが編集されている。すべてのことがすくい上げられているのではなくて、いらないとされているものは切り捨てられて捨象されている。

 すくい上げられているものよりも、切り捨てられて捨象されているものの中に意味があることがあるし、価値があることがある。編集されて加工されたものは、つくられたものだから、それにそのまま乗っかってしまうと危ないことがある。五輪で選手が感動を与えることについてもそこに危なさがないとは言えない。最大公約数による(最大公約数への)感動は、うすっぺらいとも言えなくはないかもしれない。

 運動選手のがんばりやすごさを否定するものではないが、ゲシュタルト心理学でいわれる図がら(figure)と地づら(ground)で見てみたい。図がらと地づらは固定しているものではないために反転させることが可能だ。選手を図がらとするのではなくて、見ている人を図がらとすることがなりたつ。

 選手ではなくて見ている人を図がらだとできるのは、文学でいわれる受容美学や受容理論を持ち出すことができることによる。つくることを主にするのが創作美学で、受けとることを主にするのが受容美学だという。

 見ている人がそこに意味や価値を見いだすからこそ、そこに意味や価値がおきることになる。見ている人がそこに何の意味も価値も見いださないのであれば、そこに意味や価値は無いともいえる。見ている人がどのように受けとるのかによって決まるのがあるから、見ている人(認識する人)がすごいともいえるかもしれない。

 参照文献 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『知の編集術』松岡正剛(せいごう) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『岩波小辞典 心理学 第三版』宮城音弥(みやぎおとや)編