五輪に反対することは反日なのか―五輪をテクストとして見てみたい

 反日の人が五輪に反対の声をあげている。朝日新聞社は社として五輪に反対を言っている。与党である自由民主党の前首相は雑誌の対談の記事のなかでそう言ったという。

 前首相がいうように、五輪に反対の声をあげているのは反日の人たちなのだろうか。朝日新聞社が五輪に反対を言ったのはよくないことであり、反日に当たることなのだろうか。

 哲学者のテオドール・アドルノ氏は、全体は非真実であると言っている。それからすると、日本の国の全体は非真実だとなる。日本の全体をもとにして、それに反するものを反日だとするのには無理がある。

 日本の国を見てみると、国の政治をになうのは政権だ。政権と国民とはぴったりと合っているのではない。政権は国民の代表で表象(representation)に当たる。表象である政権は国民そのもの(presentation)とまったく同じではない。

 表象であるのにすぎないのが政権であることをくみ入れると、国民とのあいだにずれがおきざるをえないから、へだたりやみぞがおきることになる。政権は全体ではなくて部分を代表しているのにすぎないから、とり落としやもれがある。すべての国民の声をすくい取れているのではない。

 かくあるべきの当為(sollen)ではなくてかくあるの実在(sein)のところを見てみれば、政権とはちがういろいろな声が国民の中からおきるものだろう。政権のやることやいうことに従うべきだとするのはかくあるべきのあり方だ。そこから反日が言われることになるが、それはかくあるべきの点から見ていることによる。かくあるの点から見てみれば、人それぞれでいろいろなちがう声があることになる。

 政権はいろいろなまちがいをおかすものだから、政権にたいして抑制と均衡(checks and balances)をいかにかけられるのかが大切だ。政権にたいしてはい(yes)ではなくていいえ(no)の声をあげるのは、抑制と均衡をかけることにつながる。はいを言う人ばかりであれば、抑制と均衡がかからずに、まちがった方向に向かってつっ走っていってしまう。

 ほとんどの報道機関は、五輪をひらくことにたいしてはいかいいえかのどちらなのかをはっきりとは示していないものだろう。はいともいいえともはっきりとはさせずに、ただ世の中の流れに流されているだけである。自分たちはこうなのだといったものを持っていない。

 報道機関は国家のイデオロギー装置だから、政権にたいしていいえの声をあげづらい。そのなかで朝日新聞社は五輪にたいしていいえの声をあげたのである。これは朝日新聞社がいちおうは自分たちとしての意見を持っていることをしめす。自分たちとしてはこうなのだといった意見を持とうとしているのである。

 自分たちの意見すら持とうとしないのが、日本の多くの報道機関だろう。あまり自分たちの意見をはっきりとさせてしまうと、色々なさしさわりがおきてしまうから、利害の計算としてそれはできづらいのはあるだろう。自分たちの意見をはっきりとはさせずに、自分たちの意見を持とうとはせずに、はいともいいえともせずに、ただ世の中の流れに流されていたほうが日本の社会の中では得であり危険性が少ないのだ。朝日新聞社のように標的にされてにらまれることが少ない。

 政権がおし進めているのが五輪をひらくことだが、五輪をひらくことにはいと言うかそれともいいえと言うかは、どちらかだけが正しいといったことであるよりは、どちらも正しいまたはどちらもまちがいを含む。割り切れることであるよりは割り切りづらいことだ。

 五輪をひらくことについては、それにたいしてはいの視点を持つこともできるしいいえの視点を持つこともできて、視点の持ち替えがなりたつ。はいの視点からすればこう言えるのがあり、いいえの視点からはこう言えるのがある、といったようにできる。視点を一つに固定化させずに変えてみて移動させてみることが大切だろう。はいの視点をくみ入れつついいえの視点をとることができるし、いいえの視点をくみ入れつつはいの視点をとることができるから、それぞれの視点を絶対化させずに相対化することがなりたつ。

 テクストとして五輪を見てみれば、いろいろな視点がなりたつなかで、ある一つの視点だけをとくに特権化することはできづらい。はいといいえの視点があるとすると、そのなかではいの視点だけをとくに特権化するわけには行きづらいものだろう。テクストとして見てみれば、政権とはちがうあり方にも少なからぬ意味あいがあるから、政権がよしとすることだけを特権化することはできない。

 政権が自分たちがもつ視点を絶対化しすぎていて、ほかのいろいろな視点をとり落とす。政権が視点を絶対化すると民主主義にはならなくなり、独裁主義のようになってしまう。民主主義は相対主義によることがいるから、視点を絶対化させずに相対化することが大切だ。政権のやることや言うことはまちがいなく正しいとは言い切れず、せいぜいがていどや度合いとしての正しさしかもつことができない。たとえ正しいにしても、あるていどの正しさしかないといったことになり、まちがいを含まざるをえない。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『ホンモノの思考力 口ぐせで鍛える論理の技術』樋口裕一 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『相対化の時代』坂本義和