愛国や右傾化の、味における甘さと苦さ―甘い方向にどんどん向かっていっている

 いまの日本の国の政治でおきている愛国や右傾化の動きをどのように見られるだろうか。それを現代思想でいわれる薬と毒の転化(pharmakon)の点から見てみたい。

 国の政治において、愛国や右傾化は、薬が毒に転化するものだ。薬が薬のままであるのではない。薬が毒に転化してしまう。日本の国の政治は、どんどん毒がまわっていっていて、ゆでがえるの現象がおきている。ゆで上がっていっている。

 はじめはお湯の温度が低くてぬるいから、それが薬であるかのようである。気持ちがよいくらいの温度のお湯は薬だといえて、そこにずっとつかっていようとする。お湯つまり薬の中に入ろうとする。みんながどんどんお湯の中に入ろうとして、そこにとどまりつづけようとする。気がつかないうちにしだいにお湯の温度が上がって行く。気がついたときにはお湯の温度がそうとうに高くなってしまっていて、ゆで上がってしまっている。薬が毒に転化したことになる。

 薬が毒に転化してしまうのにおいて、薬は中心である。辺境から中心へ向かおうとする。そうすることによって、薬が毒に転化してしまい、政治においては、薬つまり民主主義が、毒つまり独裁主義や専制主義や原理主義に横すべりして行く。

 ゲシュタルト心理学では、図がら(figure)と地づら(ground)を反転させることができるとされる。ほんらいであれば、薬つまり中心が図がらであり、そこに華々しく照明が当てられる。薬つまり中心が図がらで、そこに照明が当てられつづけているうちに、しだいに薬が毒に転化して行く。図がらが毒であり、地づらが薬だったのだとなり、図がらと地づらを反転させないとならなくなってくる。

 薬が薬のままであり、毒が毒のままであるように、固定化されているのではない。固定化していなくて流動化しているのがある。国の政治において、愛国や右傾化の動きは、はじめのうちは薬のようではあるものの、しだいに薬が毒に転化して行く。どんどん毒の方向に向かっていってしまい、毒がまわって行く。そうとうに毒がまわってからはじめてそのことに気がつくことになる。

 あらかじめ薬が毒に転じてしまうのを見こしておいて、それをくみ入れておく。それをくみ入れないで、はじめに薬をとって、それでよしとしつづけてしまうと、薬が毒に転じてしまい、どんどん毒の方向に向かって行き、毒が回って行く。いまの日本の国の政治ではそれが進行している。

 中央をよしとして、辺境をわきに置くような、はじめに薬をとるあり方だと、それがしだいに毒に転じやすい。薬をとったつもりなのが、毒をとってしまうことになる。とろうとしていたものとは逆のものをとってしまう。

 中央つまり図がらと、辺境つまり地づらがあり、その関係性が転じるのがある。中央つまり図がらでありつづけるのではなく、辺境つまり地づらでありつづけるのでもない。

 民主主義であれば、薬と毒をひんぱんに転じるようにして、薬が毒になり、毒が薬になりといったことをひんぱんにくり返して行く。それをやらずに、薬は薬のままに、毒は毒のままにとしつづけるのは権威主義だ。

 権威主義によるようにして、あり方を固定化させつづけようとすると、民主主義ではなくなってしまう。薬が薬のままではなくて、だんだん毒に転じていってしまうのは、ゆがみやひずみや緊張や圧や乱雑さ(entropy)がたまりつづけて行くことだ。

 ゆがみやひずみなどの負のものをこまめに外に吐き出す仕組みが民主主義だが、内にためつづけたままにするのが権威主義だ。日本の国の政治では、ゆがみやひずみなどの負のものがそうとうに内にたまりつづけている。薬が毒に転じてしまっていて、毒がそうとうに回ってきている。愛国や右傾化の動きがおきているのにそれが示されている。

 たとえ愛国や右傾化が、表面としては薬に見えるようであったとしても、それが毒に転じてしまい、毒が回ることになることをとり落としてしまっている。表面のところだけを見て、薬だと見なして、それをとってしまっていることがわざわいしている。愛国や右傾化は、いっけんすると表面においては薬のように見えるのがあり、それだからこそそこに気をつけて行きたい。表面つまり形式と、内の中身の実質とがずれているのがあり、形式は薬のようであったとしても、実質は毒となるおそれが高い。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『民主主義の本質と価値 他一篇』ハンス・ケルゼン 長尾龍一、植田俊太郎訳 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『右傾化する日本政治』中野晃一 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫