新しいウイルスのオミクロン株は大したことがないものなのか―ふつうの風邪と同じようなものととらえてもよいのか

 新しくおきているウイルスについてをどのように見なすことができるだろうか。構築主義(constructionism)の点から見てみられるとすると、構築された形でとらえているものなのがウイルスだ。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の新しいオミクロン株への感染が広がっているが、オミクロン株は大したことがないものだとされているのがある。大して危なくはないものだとされているのがオミクロン株だが、それはそのように構築されているものだ。

 ものを見るさいにはじめに定められる視点である、参照点がある。参照点を一つのところに固定化させずに動かして見てみられるとすると、オミクロン株を軽んじるようなものとはちがう形の構築もできそうだ。大したことがないものだとするのは参照点を低くすることだが、それを高くしてみることもできる。高くすれば、少なからず危ないものだとすることになる。

 どれくらいの参照点の高さがふさわしいのかはいちがいには決めつけられそうにない。ウイルスそのものについてをどれくらいの参照点の高さで見るのがふさわしいのかと、それよりも広い形で総合としてとらえるさいにどれくらいの参照点の高さがふさわしいのかがある。

 いちばんふさわしい参照点の高さで見るのが適したことではあるが、それがどれくらいの高さの地点なのかは定かではない。かりに参照点を低くするのだとしても、そこからおきるまずさとして、ウイルスを見くびってしまったり、たかをくくってしまったり、あなどってしまったりすることがおきかねない。

 それほど大したものではないのだから、軽んじるようにするべきであり、参照点を低くするようにする。それが功を奏するのであればよいけど、完ぺきな合理性によるのだとは言い切れそうにない。

 完ぺきに合理性があるとは言えないが、参照点を引き上げる形で動かしてみて、高くするのにはあるていどの合理性がある。参照点を低いままで固定化させないで、ためしに高くしてみる。ためしに高くしてみれば、もしもウイルスが手ごわいものであったらどうすることがいるのかを探りやすい。ウイルスの手ごわさをくみ入れやすい。

 かりにウイルスそのものはそれほど手ごわくはないのだとしても、広い意味では手ごわいことがある。それそのものだけではなくて、広い総合で見ると手ごわいことがあるから、必ずしもゆだんはできないところがあるかもしれない。

 政治の選挙では、当選を目ざす人が、まちがいなく自分は選挙で当選できるのだとしていると、落選してしまうことがある。よゆうで自分は当選できるのだとしていると、選挙の活動に身が入らない。選挙で当選できそうだったとしても、確かに当選できるとはかぎらないから、参照点を上に高めるようにして、危機感をもつ。選挙で当選を目ざすさいには、参照点を低くするのはよくないとされていて、それを高めるのがよいことだとされている。

 どんなに大したことがなくて弱そうなものであったとしても、いちおう参照点を引き上げる形で動かしてみて、高くしてみるのは、まったく無駄にはたらくものだとは言えそうにない。もしも万が一手ごわいものであったとしたら、ひどい損や害がおきることになる。確実に何とかなるとは必ずしも言い切れないのがあるから、不確実性への備え(contingency plan)の一つとして、参照点を固定化させずに、それを動かしてみて、ためしに上に引き上げて高くしてみるのはあってよいことだろう。

 参照文献 『社会問題とは何か なぜ、どのように生じ、なくなるのか?』ジョエル・ベスト 赤川学監訳 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一