五輪と知の誠実さ―政治家と学者を比べてみたい

 東京都で夏に五輪をひらく。与党である自由民主党の政権はそれをおし進めている。そこに欠けてしまっているのはどのようなことだろうか。知の誠実さが政権には欠けているのだと見なしたい。

 社会学者のマックス・ウェーバー氏は、知の誠実さ(廉直)を持つことが大切だと言っている。科学のゆとりや冗長性(redundancy)をもつようにして、それらが欠けないようにして行くことだろう。

 修辞学の議論の型(topica、topos)の比較からの議論によって、政治家と学者とを比べてみたい。

 民主主義の選挙で選ばれているのが政治家だから、民主の正当性がより濃いのが政治家だ。民主の正当性が政治家よりも薄いのが学者だ。より人々の声が反映されているのが政治家だ。

 知の誠実さの点で比べてみると、与党の政治家にはそれがいちじるしく欠けているのが目だつ。民主主義の選挙で選ばれているから自分たちはえらいのだとしてしまっている。おごりやごう慢さが見てとれるのが与党の政治家にはある。知の誠実さとしては政治家は劣っていて、学者のほうがすぐれている。このさいの学者とは、権力におもねる者をのぞく。権力にたいしていいえ(no)を言える者をさす。

 人々の声を反映しやすいのが政治家だから、何かとそのことにものを言わせやすい。民主の正当性が濃いことを大きく重んじる。政治家よりも民主の正当性が薄いものを下に見る。政治家はえらいのだから、それに従うべきだといったことになる。

 濃さと薄さでいうと、たしかに政治家は民主の正当性がより濃いのはあるが、その濃さには意味あいが薄いところがあるのがいなめない。意味は濃くはない。

 かなり効率を重んじているのが選挙にはある。十分に適正なあり方にはなっていない。選挙で出た結果が現実とは離れた虚偽意識と化すことが少なくない。虚構の数字を出すところが選挙にはあるから、そこで出た結果がまさに現実そのものだとは言うことはできないものだろう。

 選挙で票を投じる意味あいがよくわからないところがあり、そこから人々は合理の無知や合理の棄権におちいる。無知であったり棄権をしたりすることには、それなりの合理性がある。それなりの合理性がおきてしまう。お金をかせぐとか生活にさし迫ったことではないから、政治に関心をもつのや選挙で票を投じることにはなかなか動機づけ(incentive)がおきづらい。

 選挙をやったとしても、すべての人々をくまなく包摂しているとは言えないのがある。すべての人が票を投じて参加するのではないし、はじめから参加の権利がはく奪されてしまっている人もいる。

 社会の中にいるさまざまな人たちのさまざまな声がくまなくすくい取られているのではないのが選挙だろう。かなり限定されているしかなり形骸化している。現実とかい離してしまっているところがある。

 生の現実そのものをまさに反映したものが選挙だとは言いがたいから、たとえ民主の正当性が濃いのが政治家だとはいっても、意味あいが欠けているところがある。意味が欠けているところがあるから、そこを差し引いて見なければならない。

 意味が欠けているところを差し引いて見てみれば、政治家と学者とを比べてみたさいに、政治家が優で学者が劣にあるとは言えないところがある。このさいの学者は、権力にいいえ(no)を言わない御用の学者をのぞいたものであり、きちんと権力にいいえを言うべきときにはそれが言える者(言おうとする志をもつ者)をさす。

 政治家よりも学者のほうがより上回っていることが多いのが知の誠実さの点だ。知の誠実さでは学者のほうがより上回っていることが多いので、政治家はそこを学ぶべきである。けんきょになって政治家は学者から知の誠実さを学ぶことがあってほしいものである。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広まっている中で五輪をひらこうとするさいに、政治家に知の誠実さが欠けていることが悪く響いている。ウイルスの感染がおきている中で五輪をひらくかどうかを決めるには、知の誠実さが欠かせない。学問の知をきちんと重んじて政治のものごとをやって行かないとならないが、それができていないのが政権だ。

 たとえ人々の声をより反映していて、民主の正当性が濃いからといって、それで政治のものごとがうまく行くとは言いがたい。人々の声をより多く反映しているからこそかえって政治でまちがうことがある。多数派がまちがうことはしばしばあるし、民主主義には多数派の専制になる危なさがつねにつきまとう。

 どのみちていどのちがいにすぎず、絶対ではなくて相対の差にすぎないのが、人々の声をどれくらい多く反映しているのかだ。しょせんは相対の差にすぎないのがあるから、まったく人々の声を反映していないのならゼロだが、あとは一足す n(任意の自然数)といったことも言えそうだ。一足す n として見れば、その大きなくくりの中ではそう大したちがいはない。

 一足す n の値がより大きければ大きいほど政治で正しいことが行なえるとは言えそうにない。かえってその値が大きいことで政治でまちがったことをやってしまうこともあるだろう。人々の声の中にはいろいろなものがあるのだから、愛国も反日もすべてがこの一足す n の中に含まれることになり、どちらも部分としては正しいことがあるし部分としてはまちがうことがあるものだろう。

 政治家はしばしば知の誠実さが欠けていることから政治でまちがったことをやりがちだ。そこを十分にくみ入れるようにして、知の誠実さとして政治家が劣っていることを自覚して、そこに(政治家よりはよほど)すぐれている学者に見習うことがあってよいものだろう。権力にはい(yes)と言う者ではなくて、いいえ(no)を言う学者をもっと生かすようにするべきであり、もっと活用されるべきである。そうでないと日本の政治の創造性が高まることはのぞみづらい。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『若者は、選挙に行かないせいで、四〇〇〇万円も損してる!? 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『正しく考えるために』岩崎武雄 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『哲学塾 〈畳長さ〉が大切です』山内志朗(やまうちしろう)