日本の国を守るためには、軍事力を高めて行けばよいのか―軍事力を高めればまちがいなく国は安全になるのか

 北朝鮮が、何発もミサイルをうっている。そんななかで、日本の国を守るためには、敵の基地への攻撃の能力を持てるようにするべきなのだろうか。日本の国を守るためにはどういったことが大事なのだろうか。

 日本の国を守るためには、いたずらに物理の軍事の力(hard power)を高めて行くのではなくて、文化の力(soft power)を高めて行く。文化の力とは、たんてきに言って法の決まりを守ることだ。法の決まりでは、いまの日本の憲法や、国際法である国際連合国連憲章がある。これらをしっかりと守るようにして行く。

 軍事の力ではなくて文化の力をより重んじたほうがよい。そう言ったとしても、あまり高い説得力はないかもしれない。文化の力を高めて行くべきだと言い、それが高い説得力をもつのであればよいけど、そうはならないところが現実にはある。大きな物語にはならずに、小さな物語になる。

 北朝鮮がミサイルを何発もうっているような、日本の国の外において危険性がおきてくると、日本の国を守ることの必要性がおきてくる。その必要性は、日本の国を基礎づけるような方向のものとしてはたらく。たんてきに言うと、保守や右傾化の動きが強まる。

 日本の国を基礎づけようとする方向性がおきてくるのとともに、それができないのもまたある。さまざまなことについての基礎づけができなくなっているのがあるので、たとえ日本の国を基礎づけようとしたとしても、それができなくなっている。日本の国を基礎づけることができなくなっているのは、世界がグローバル化しているのも少なからず関わっている。

 日本の国の外に危険性がおきていることから、そこからの自然のなり行きとして、日本の国のことを基礎づけようとして、国を守る軍事の力を高めて行こうとする。いっけんするとそれは自然ななり行きであるかのようではあるけど、そこで見すごすことができないのは、そもそもがさまざまなことについての基礎づけが成り立ちづらくなっていることだ。大きな物語がなりたちづらくなっていて、小さな物語しかなりたちづらくなっている。

 たとえ自国ではあったとしても、日本の国のことを基礎づけるのははなはだできづらくなっているのがある。そんななかで、日本の国を守るために、軍事の力を高めて行こうとするのではなくて、文化の力を高めて行くようにしたい。

 文化の力を高めて行くようにするのにしても、そのことを基礎づけることはできないのはたしかだ。絶対にまちがいがないような確かに安定したものとしては基礎づけることはできないが、それなり(より以上)にはよい方向性なのが、文化の力を高めるようにすることだろう。

 さまざまなことの基礎づけがなりたたない中において、どのような方向性でやって行くのがよいのかがある。いっけんすると自然ななり行きのようでいて、じっさいにはそうではないものなのが、軍事の力を高めて行くことだ。よい手だてだとは言えそうにない。まちがいなく自明で自然なことだとは言えないものだ。

 軍事の力を高める手だてでやっていってしまうと、そもそも自国である日本の国のことを基礎づけることができなくなっているのを見逃してしまう。日本の国が多孔化していて国のあちらこちらに穴が空いているのを見ないことにしてしまい、さまざまな穴にフタのおおい(cover)をしてしまう。そのフタのおおいがしてあるのを、文化の力によって引っぺがすようにして、さまざまな穴が空いているのをさし示しながら、文化の力を高めるようにして行きたい。

 参照文献 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお)