政治においてどのような声をあげるべきかと、声をあげることの自由―かくあるべき声と、かくある声

 日本の国内で、女性の権利が侵害されていることについて声をあげる。それに声をあげるのであれば、中国で行なわれているウイグルの人たちにたいする人権の侵害や、北朝鮮が日本人を拉致したことについても声をあげよ。ツイッターのツイートではそう言われていた。

 ツイートで言われているように、日本の国内で女性の権利が侵害されていることに声をあげるのであれば、中国のウイグルのことや北朝鮮の拉致のことにも声をあげないとならないのだろうか。

 公共性の点でいえるとすると、日本の国内で女性の権利が侵害されていることは、それが明らかになればうまくすれば報道でとり上げられやすい。とり上げる値うちがあることがらだ。日本の国内でおきたことであれば、日本の国内の報道でとり上げられやすいのがあり、それは日本の国内の公共性に関わることがらだからだろう。

 日本の国の中でもっと中国のウイグルのことや北朝鮮の拉致のことに声をあげることが行なわれるようにするためには、日本の国の公共性においてそのことが話題として日ごろからくり返しとり上げられていないとならない。日本の国内のことがらよりも、中国のウイグルのことや北朝鮮の拉致のことがより優先されて報道で報じられるようであれば、そこに人々の関心が向かいやすくなるから、声があげられやすくなるだろう。

 日本の国の中のことがらであればうまくすればそこに関心が向けられやすい。日本の国の外のことがらはどうしても疎遠な外部になりやすい。たとえ日本の国の中のことがらであったとしても、関心が向けられるべきところにそれが向けられずに疎遠な外部になってしまっていたり当たり前のことだとされたりしていることがらは少なくないのがある。

 日本の国の中であろうとその外であろうと、関心が向けられるべきところにそれが向けられるようにする。声があげられるべきところにそれがあげられるようにする。そうして行くためには、ただたんに声をあげるべきだとするのとは別に、疎遠な外部になってしまっていたり当たり前だとされていたりするのがあるのならそれらを改めるようにして行く。そうなっている要因を探り、その要因にたいして手を打って行く。そうして行くことが有効だろう。

 政治において声をあげることはとても大切なことだ。声をあげることは一つの手段だが、その手段を用いることが許されているのかどうかがある。中国や北朝鮮では人々が政治の声をあげる手段が許されていないのがあるから、それが許されるようになることがいる。

 中国や北朝鮮では自由主義(liberalism)がとられていない。独裁主義になっている。人々が政治の自由をもつことが許されていない。政治において声をあげる必要性が高いのだとしても、それが中国や北朝鮮の国内では許容されていないから、声をあげることができない。そこから、自由主義の大切さが浮かび上がってくる。

 どのような声をあげることが政治においてよいことなのかや、どのような声をあげることが政治においてよくないことなのかがある。それを国が上から一方的に決めつけてしまう。たった一つの声だけが正しいのだとして、それを人々に上から力によって無理やりに押しつける。中国や北朝鮮はそうなってしまっているのがある。

 手段として声をあげることが政治において許されるのが自由主義のあり方だ。手段として人々がさまざまな声を政治においてあげるさいに、そのことについてを哲学の新カント学派による方法二元論によって見てみられる。方法二元論では事実(is)と価値(ought)を分けるのがある。

 事実と価値を分けて見られるとすると、政治において声をあげるさいに、声をあげたことの事実があるのだとしても、それがどのような価値をもっているのかはいちがいには決めつけられそうにない。価値はいちがいには決めつけられないものであり、絶対のものではなくて相対性による。相対性によるものなのがあるから、さまざまな声があげられることがいることになる。

 価値が絶対のものになっているのだと、たった一つの声だけが正しいことになる。政治においてどういう声をあげることがよいのかや、どういう声をあげるのがよくないことなのかが一方的に上から力で無理やりに押しつけられることになる。そこに欠けているのが自由である。自由主義によって人々がさまざまに声をあげることがさまたげられる。

 政治において手段としてあげられた声の中でどういうことが言われているのかは価値が関わってくる。価値には相対性があるから、事実として声があげられたとはいえるにしても、それがどういう価値をもっているのかはいちがいには決めつけられないところがある。

 中国や北朝鮮の国の政治は独裁主義になっているから、それが改まるようにして、人々が自由に政治において声をあげられるようになればよい。政治においてどのようなことが人々によって言われるのかよりいぜんに、そもそも政治において人々が声をあげることが許されていないのがあり、価値が絶対化されてしまっている。他からの批判を許さないようになってしまっている。それが改まることが大切だ。

 政治において声があげられてその中でどのようなことが言われているのかよりもいぜんに、そもそも政治において自由に声をあげることが許されていない。中国や北朝鮮ではそうなっているが、そのことは日本の国にとって他人ごとや対岸の火事とは言い切れないものだろう。

 日本の国にとって中国や北朝鮮は他人ごとや対岸の火事とは言い切れないのは、日本の国において自由主義が損なわれているのがあるためだ。政治において人々が声をあげるのは一つの手段だが、その手段を用いることそのものがよしとされていないところがある。その手段を用いることそのものがよくないことなのだとされているところがある。価値が絶対化されているのがあり、日本の国のことをよしとすることだけが正しいことなのだとする愛国の動きがある。

 中国や北朝鮮では人々が政治において自由に声をあげることが許されていないから排他のあり方だ。人々が政治において手段として声をあげることができづらい。それを改めるためには自由主義をなすことがいる。中国や北朝鮮とはちがい日本では自由主義ができているのかといえばそうとうに心もとない。

 日本では中国や北朝鮮ほどには排他のあり方にはなっていないが、排他の方向性に進んで行きそうな国家主義(nationalism)の動きがあることはいなめない。人々に政治において自由に声をあげる手段そのものを用いさせないようにする動きだ。政治において人々が声をあげたさいにそこでどういうことが言われているのかよりいぜんに、手段として人々が声をあげるのを自由に用いられるのでないと、排他のあり方になってしまう。それは自由主義における包摂性が損なわれたあり方だ。

 まずは自由主義において包摂性があるようにして、排他のあり方を改めるようにして行く。国家主義によって価値が絶対化されてしまっているのを改めて行く。価値の相対性によるようにする。国が上からたった一つだけの正しい声を力で無理やりに押しつけないようにする。いろいろにちがいがある声を政治において人々が自由に言えるようにして、手段として人々が声をあげることが政治において自由に用いられるようにすることが大切ではないだろうか。

 参照文献 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『知のモラル』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一 『情報生産者になる』上野千鶴子