国葬の、利と危うさ―利益と危険性の高低

 どれくらいの利益と危険性が、国葬にはあるのだろうか。

 利益(return)と危険性(risk)の点から、安倍元首相の国葬を見てみたい。

 高い利益と、高い危険性があるのが、国葬だ。

 ここでいう利益は、国民の全体の利益であるよりは、おもに自由民主党が得られる利益である。日本の国が得られる利益だ。権力者や支配者が得る利益である。

 高い利益をねらいに行き、それを得ようとしているのが岸田文雄首相だ。

 高い利益をとりに行ってしまっているから、そこに高い危険性もくっついてきている。

 低い利益を得るのでよいのだったら、国葬ではなくて、内閣葬や自民党葬の形にするのが適している。

 内閣葬や自民党葬ではなくて、国葬にすることで、高い利益を見こめるけど、それとともに高い危険性もおきてくる。

 いちばんおいしいあり方である、高い利益と低い危険性のあり方は、ありえづらい。探してもなかなか見つかるものではない。

 きちんと憲法(近代の立憲主義憲法)を守って行く。法律を守って行く。そのようにすれば、形式論によるあり方にできる。形式論のあり方にできていれば、利益は低いけど、危険性もまた低い。手がたいやり方でできる。難を避けやすい。

 形式である、憲法や法律をしっかりと守っていれば、危険性が高くなるのを避けられた。

 形式のところの憲法や法律を軽んじて、そこをないがしろにしてしまったので、国葬には、高い危険性がおきているのである。形式を重んじず、そこを軽んじたことが、あだになり、わざわいした。

 どういうふうに決めればよかったのかといえば、まず危険性をできるだけ低くおさえる。危険性が高くならないようにする。危険性を低めるために、形式のところの憲法や法律をしっかりと守って行く。そのうえで、何かをやるようにすればよかった。

 形式のところの憲法や法律をしっかりと守って行くようにすれば、危険性は低くおさえられるけど、得られる利益はそう高くはない。低い利益しか得られないことが多い。そんなに高い利益は得られないが、それを受け入れるようにしたほうがぶなんだ。

 国葬ではなくて、内閣葬や自民党葬にしていれば、形式のところの憲法や法律を守る形にできただろう。形式のところを大きく踏み外さないようにすることができたのである。形式を押さえたうえで、たとえ利益は低いものであるにせよ、少しの利益は得ることができただろう。

 たくさんの利益を得ようとして、岸田首相はよくばりすぎた。欲をはりすぎたのがあり、そこから大きな危険性がおきてしまった。欲をはらずに、少しの利益を得られるだけでよいから、そのかわり危険性を低くおさえるように努めていれば、大ごとにはならなかった。

 自民党の強欲さが出てしまったのが、国葬にはある。高い利益と低い危険性のような、現実にはきわめてありえづらいことをのぞんだのがある。ふたを開けてみたら、低い危険性ではなくて、高い危険性がおきたところがある。

 少しでも高い利益を得ようとする。利潤の極大だ。商売ではそれが目ざされるけど、政治では、それをやらないようにしたい。たとえ利益を失うことになるのだとしても、危険性を低めることのほうが重要だ。形式のところの、憲法や法律をしっかりと守って行くようにしないと、危険性を低められないから、そこをもっとも優先させないとならない。

 国葬には、利益の高さと、危険性の高さがあるけど、そのうちで、利益の高さにばかり目をうばわれたのが岸田首相だ。利益の高さに目がくらんだ。危険性の高さがあるのをとり落としてしまったのである。どこに目をつけるべきだったのかといえば、利益が高いのであれば、危険性もまた高いのだとして、危険性の高さを想定(予想)しなければならなかったのである。

 参照文献 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや)