国葬と、政治における距離―(やや大げさに言うと)安倍元首相との距離感が〇になっていて、まひしていた

 国葬にされるのが、安倍元首相だ。

 どういう距離のあり方が、安倍晋三元首相とのあいだに取られることになるのが、国葬なのだろうか。

 距離や間合いの点では、政治においては、それが失われてしまうのはよくない。

 距離感が失われてしまうと、政治においては、まひがおきてしまう。独裁や専制がおきてしまう。

 安倍元首相は、犯人に殺されたが、その事件がおきる前は、日本の政治で、距離感が失われていた。間合いが近くなりすぎていた。まひがおきていたのである。

 事件がおきたことによって、ちょっとだけ距離感がとれるようになった。間合いを遠ざけることができるようになった。

 どういうねらいが、国葬をやることにはあるのかといえば、距離感を失わせることだ。まひさせるようにする。間合いを近くして、安倍元首相のことを良しとさせる。

 適していない距離や間合いのとり方になってしまうのが国葬だ。事件がおきる前から、安倍元首相に対しては、適していない距離感になっていたが、事件がおきたあとも、それをつづけようとするねらいが取られている。

 政治では、できるだけ適した距離感や間合いをとるようにすることがいるけど、それができていなかったのが、事件がおきる前だ。距離感が〇になっていた。まひしていたのがあるので、日本の政治は危なくなっていたのである。

 事件がおきたあとのいまでは、まひがちょっとだけ解けてきている。少しだけではあるけどまひが解けてきていて、距離感がわずかに回復している。間合いを少しだけとれるようになってきている。

 間合いを近づけて、それを埋めようとするのが国葬だけど、その逆をやらないとならない。距離感や間合いをとって行く。間合いを開ける(空ける)ようにすることがいる。

 絵を見るときには、絵に近づきすぎると、絵をとらえづらいことがある。絵から引いてみて(離れてみて)、あるていどの距離をとって見ることがいることがある。ものを認識するためには、そこにさいていげんの距離が必要だ。それと同じように、政治では、距離を取るようにすることがいる。

 何がかんじんなことなのかといえば、国葬についてであるよりも、距離感や間合いの適切さだ。国葬をよしとしてしまうと、距離感や間合いをとりづらい。国葬をよしとしながら、距離感や間合いをとって行くのはできづらいものだろう。そこにわながしかけてある。

 いかに、政治において距離感や間合いをとって行くのかが重みをもつ。事件がおきる前は、安倍元首相に対して、それができていなかった。距離感をとることに失敗していたのが日本の政治だった。その失敗を持ち越してしまうことになるのが、国葬をやることだ。

 もともとが悪いあり方だったのがあり、距離感が〇になっていた。その悪いあり方から、いかにして距離感を少しでも回復できるのかがある。いまは、事件がおきたことによって、少しだけ距離感が回復し出しているところがある。これはよい兆候だろう。

 よい兆候がこれからも長つづきするかどうかはわからないから、気を抜くことはできづらい。距離感や間合いをとることに、最大限の力を入れて行くことが、日本の政治ではいまいることだろう。まひや悪い酔い(陶酔)をいかにして解いて行くのかが、いることだ。

 参照文献 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『間合い上手 メンタルヘルスの心理学から』大野木裕明(おおのぎひろあき)