ヒトラーに例えるのは、ほめたことになるのか―テクストと、その意味の理解のしかた

 ほめられたことにしておこう。ヒトラーに例えられた日本維新の会の関係者は、そう言っていた。

 野党の立憲民主党と維新の会とのあいだで、ヒトラーにたとえることをめぐって争い合いがおきている。

 立憲民主党菅直人元首相から、ヒトラーに例えられたのが維新の会の関係者だ。それは国際法または国際的に許されるものではないとしながらも、ほめことばとして受けとるようにして、対立をおさめる形である。これはふさわしい受けとり方なのだろうか。

 菅元首相は、ほめ言葉として、維新の関係者をヒトラーにたとえたのだろうか。もしもそうだとすると、作家で元政治家の石原慎太郎氏とおなじことになる。菅元首相と石原氏とでは、ちがいがあるのだと見なしたい。

 ほめているところが部分としてはあるのだとしても、それはあくまでも抑揚をとるために言ったものであり、そこに主眼があるとは言えないものだろう。よいかそれとも駄目なのかがあるとして、よい、または駄目だ、とただたんに言うだけでは抑揚がない。よいけど駄目だ、または、駄目だけどよい、とすると抑揚がとれる。

 石原氏においては、駄目だけどよいに当たると言える。よいのところに重みがあり、ほめ言葉として受けとれる。

 菅元首相においては、よいけど駄目だに当たると言える。よいのところに重みがあるのではなくて、駄目だのところに重みを置いているものだろう。石原氏が言ったのとはちがいがあるから、ほめ言葉として受けとるのには無理がある。

 テクストに当たるのが、菅元首相が言ったことだが、どのようにテクストの意味を受けとるのかにははばがある。テクストをつくったのが菅元首相だが、作者である菅元首相よりも、それを受けとるほうに重みがおきる。作者の死と、読者の誕生だ。作者の死は、読者の誕生によってあがなわれなければならない。批評家のロラン・バルト氏による。

 テクストについての受けとり方では、こうしたことが言えるだろう。もしもほめ言葉として受けとれるのであれば、はじめから維新の関係者はそのように受けとっていたはずだ。ヒトラーに例えられたことをよくないことだとしていなかったはずだ。ヒトラーに例えられて、うれしい、となっていたはずである。

 ことを丸くおさめるために、維新の関係者は、ほめ言葉として受けとっておこうとしているのがあるけど、それであれば、はじめからそのようにしていればよかったものだろう。そうではなくて、はじめに否定のものとして受けとったのは、菅元首相が言ったことが、ほめ言葉ではないことをあらわす。それをしめしているのがある。

 よくいえば、ことを丸くおさめるために大人のふるまいをしたのが維新の関係者だが、悪くいえば、はじめとあととでつじつまが合っていない。つじつまが合っていないのは、ことを中途半端にしてすませようとしているからであり、さわぎをおこすことを目的にしていたからではないだろうか。修辞学でいわれるくん製にしん(red herring)だ。

 もれなくだぶりなくの MECE(相互性 mutually、重複しない exclusive、全体性 collectively、漏れなし exhaustive)で見てみると、ヒトラーにたとえるのは、菅元首相だけではなくてほかにもいろいろに行なわれている。日本の国だけでもそれが言えるのがあり、世界においてはもっといろいろに行なわれているものだろう。

 立憲民主党泉健太代表は、なぜ菅元首相だけが悪いものだとしてとり上げられるのかがわからない、と言っていた。泉代表が言うように、MECE で見てみると、もれがありまくりなのだ。もれがありまくりな中で、菅元首相だけがやり玉にあげられている。二重基準(double standard)になっている。

 二重基準なのが絶対によくないとは言い切れないのにしても、菅元首相が悪いのだとするのであれば、もっととことんまでやり合えばよいだろう。菅元首相は、受けて立つと言っていて、維新の会と対立することをこばまないのだとしている。

 維新の会は、菅元首相のことを、修辞学でいわれる、人にうったえる議論によって攻撃しているところがある。人にうったえる議論では、なにを言ったかではなくて、だれが言ったかによってよし悪しを見るものだ。菅元首相だから悪いのだとすることになる。

 だれが言ったのかではなくて、なにを言ったのかを見るようにして、とことんまでやり合う。おなじことを言っていても、だれがそれを言ったのかによって、あつかいを変えないようにする。だれなのかによって応じ方を変えるような、人にうったえる議論によるのだと、不公平がおきてしまう。日本では、公平性が欠けることが多い。

 政治は、とことんまでものごとをやることがいるものだから、ねばり強くつきつめてやって行くようにしたい。維新の会は、政治をやる気がなくて、ことを中途半端にして終わらせてしまっている。政治をやる気がないのがある。言い方はややおかしいが、せっかくなのだから、ヒトラーに例えることの是非についてを、とことんまでつきつめて見て行くことがあれば、少しくらいは意味があると言えるだろう。

 参照文献 『ほめるな』伊藤進 『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』香西秀信 『政治家を疑え』高瀬淳一