日本と韓国とのあいだで、歴史戦をやるのだと言われている。公共の放送である NHK のテレビ番組でもそれが言われていた。
佐渡島の金山を世界文化遺産に登録するのについて、戦争のさいにそこで朝鮮半島の人たちが強制に労働させられた。韓国はそれをとり上げて日本に抗議している。
日韓のあいだの歴史戦では、日本は何がなんでも韓国に勝たなければならないのだろうか。負けることはあってはならないのだろうか。
かりに歴史戦をやるのにしても、そこにはっきりとした勝ちやはっきりとした負けがあるとは言えそうにない。何をもってして日本が勝つことになるのかや、何をもってして韓国が負けることになるのかは、はっきりと決めづらい。
勝つのはよいことであり、負けるのはよいことではない。日本は負けないようにして、勝たなければならない。そうしたことで歴史戦が戦われるのだとすると、勝つのは優の階層(class)で、負けるのは劣の階層になる。日本は優の階層にどうしてもなりたいのがあり、劣の階層にはなりたくはない。
勝つのと負けるのを脱構築(deconstruction)することができるとすると、負けることがあってはじめて勝つことがなりたつ。負けることがなければ勝つこともまたない。負けるのと勝つのは互いに関係し合っているものであり、負けることだけがあるのでもなければ、勝つことだけがあるのでもない。勝つことよりも、負けることのほうにこそ価値があるのである。負けることのほうが本質によることである。
野球の監督の野村克也氏は、勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなしと言っている。たとえ歴史戦に勝ったのだとしても、不思議に勝つことがあるから、そこに価値があるとはかぎらない。勝ったとしても駄目だといったことがある。
日本は歴史戦において負けるようにすれば、ことわざで言う負けるが勝ち(stoop to conquer)になる。負けることによって勝つことになる。そのためには日本に科学のゆとりがなければならない。科学のゆとりをもっていれば、日本は負けることによって勝つことができる見こみがある。
歴史戦を日韓でやるのだとすれば、日本はどんどん負けるようにして行く。韓国にたいして、日本は負けるようにして行く。どうか韓国が勝ってくれるようにと、日本はねがう。それを日本にはおすすめしたい。韓国が負けることをねがい、日本が何がなんでも勝とうとするのは、日本のいじ汚さが出ている。日本の国の汚さやよごれがよく出ている。日本の相手である韓国が勝つことをねがい、日本は負けるようにしたほうが、日本の国がもつ汚さやよごれが少しくらいはきれいになるかもしれない。