亡くなった人のことは、批判をしたり悪く言ったりしてはならないのか―日本の御霊信仰の悪さ

 亡くなった人を批判するのは憎悪の表現(hate speech)に当たる。亡くなった政治家のことを悪く言ってはならない。そう言われているのがあるが、それは正しいことなのだろうか。

 具体としては、元政治家で作家の石原慎太郎氏が亡くなったが、石原氏のことを批判するのは憎悪の表現に当たるからよくないと言われていた。石原氏は亡くなったのだから、石原氏のことを悪く言ってはならないという。

 亡くなった人のことを批判したり悪く言ったりしてはならないのだとは言えそうにない。亡くなった人が生きていたあいだに、いろいろなことを言ったりやったりしたのがある。生きていたときに色々と言ったりやったりしたことについては、たとえその人が亡くなったからといって、つねに他からの批判にたいして開かれていなければならないだろう。

 生きていたときに色々と言ったりやったりしたことの中でまちがったことがあれば批判されざるをえない。たとえ亡くなったからといって、それをもってして生きているあいだになしたことがすべて正しくなるのではない。

 ことごとく生きているあいだに正しいことを次々になして行くのはできづらい。少しくらいはまちがったことをやってしまうのがあるから、そのまちがったことが、亡くなったら水に流されるとはかぎらない。水に流されてちゃらになるとは限らないのは、生きているあいだになしたことが、こん跡として残るのがあるからだ。残されたこん跡を批判としてとり上げて、そこに批判を投げかけて行くのはいることだろう。

 大きな物語のようには、生きているあいだになしたことが完ぺきに正しいことだと基礎づけることはできづらい。生きているあいだになしたことは、大きな物語にはできず、小さな物語にならざるをえない。どこかにまちがいがあるものであり、誤りはつきものだ。

 生きているあいだに手に入る情報や知識には、限界がある。生きているあいだに、絶対にまちがいがないと言えるほどの情報や知識を手に入れることはできづらい。たしかと言えるほどの真理はわからない。不確かさをまぬがれない。その時代が抱えているいろいろな限界がある。

 あとの時代になってふり返ってみれば、その時代によしとされていたことがまちがっていたことがわかることがある。知識の他律性だ。哲学者のカール・マンハイム氏による。知識社会学だ。まちがいなく確かだと言えるほどのものであれば、知識の自律性に当たる。絶対の普遍の真理と言えるほどのものだ。

 知識では、自律性と他律性が混ざり合っていて、自律性だけでもないし他律性だけでもない。完全に確かだとは言えず、不たしかさを抱えもつ。不安定さを含みもつ。矛盾を抱えることになる。

 知識の他律性では、愛国の歴史の見かたはその代表だ。愛国の歴史の見かたは、あとの時代にまちがっていたとされる見こみがかなり高い。愛国の歴史の見かたは、その時点の(長期ではなくて)短期の利益をとろうとするところが強い。

 日本には古くからの信仰である御霊(ごりょう)信仰がある。御霊信仰では、亡くなった人をとむらい、ごきげんを取って行く。そのことによって亡くなった人がマイナスだったのがプラスに転じる。よいことをもたらすものに変わる。学者の柳田国男氏が見つけたものだ。亡くなった人だけにかぎらず、生きている人にもまたこれが行なわれる。

 生きているあいだから、御霊信仰がとられていたのが、石原氏にはある。石原氏だけにかぎらず、政治家のごきげんをとることが日本ではさかんに行なわれている。日本の政治においてそれが悪くはたらいてしまっている。

 たんに、石原氏が亡くなったから、石原氏を批判したり悪く言ったりしてはいけないとされるだけなのではない。亡くなる前の、生きているときから御霊信仰がとられてしまっていて、ごきげんをとることがさかんに行なわれてしまっているのだ。そこに悪さのもとがある。

 石原氏だけにかぎらず、あらゆる政治家は、他からの批判にたいして開かれていなければならないだろう。たとえその政治家が生きていても、また亡くなったあとでも、他からの批判をまぬがれることはできづらい。大きな物語といえるほどに正しいことはなく、小さな物語であるのにとどまる。さしあたってのことを言ったりやったりするのにとどまるから、それがまちがっているのでないかどうかを、きびしく批判されることがあったほうがよい。

 どちらかといえば、亡くなった人を批判したり悪く言ったりするのであるよりも、亡くなった人が生きているあいだに言ったりやったりしたその言動についてを、批判して行く。人にたいしてであるよりは、その人がなした言動を批判して行く。

 人(送り手)と発言とをいっしょくたにしてごちゃ混ぜにしないで、それらを切り分けて行く。人とは切り分けたうえで、発言つまりテクストについてを批判としてとり上げる。人については、作者の死(作者の死と読者の誕生)があるから、人によってしばられるものとしてではなくて、人から自由になって切り離されたものとしてテクストがあるのだとできる。

 罪を憎んで人を憎まずといったようにして、なるべく人を憎まない形にすることができるだろう。たとえ批判をするのにしても、その人のすべてを丸ごと全否定することには必ずしもならないのがある。その人のすべてを丸ごと総合に全否定するのだとやりすぎなことがある。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『丸谷才一 追悼総特集 KAWADE 夢ムック』河出書房 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『歴史学ってなんだ?』小田中(おだなか)直樹