自由の危機と、社会の価値観―価値観の見直しがいる

 自由の危機がおきている。自由主義(liberalism)が危機におちいっている。日本でそれらがおきているとすると、それらをどのようにとらえられるだろうか。

 自由では、事実(is)と価値(ought)の二つに分けて、価値についてはできるだけ自由にやって行く。そうするようにして行きたい。

 いまの日本は、経済の新自由主義(neoliberalism)が強まっていて、勝ち組と負け組に分かれている。経済学者の森永卓郎氏は、勝ち組ではなくて価値組がよいのだと言っていた。

 勝ち組には価値があって、負け組には価値がない。そのような価値のあり方になっている。その価値観が社会の中でとられているから、負け組だと価値がないとされることになり、生き苦しくなる。

 自由の危機といったさいに、そこには価値が関わってきて、価値では社会の価値観がどうかがある。社会の価値観では、勝ち組には価値があり、負け組には価値がないとされて、負け組は生き苦しい。負け組はあってはならないとか、よくないとかとされて、生きていてはならないとまでされてしまいかねない。

 新自由主義だと、勝ち組と負け組に分ける価値観がとられてしまう。その価値観を改めて行くことが、新自由主義を改めることにつながって行く。そう見なしてみたい。

 新自由主義だと、自由とはいっても、反自由になってしまうところがある。反自由になってしまうから、負け組に当たるととりわけ生き苦しい。負け組と勝ち組のあいだには相互作用がはたらくので、社会の全体がさつばつとすることになる。

 政治では、勝ち組つまり与党は正しくて、負け組つまり野党はまちがっているとされている。これは、新自由主義によるあり方だ。勝ち組(つまり与党の自由民主党)だけが正しいのだとする価値観を改めて行きたい。

 勝ち組だけが正しいのだとしてしまっているから、政治が反自由になってしまっている。そこを自由になるようにして、勝ち組だけが正しいのだとはしないようにして行きたい。勝ち組ではなくて価値組だとするようにして、負け組(つまり野党)だからだめなのだとか悪いのだとはしないようにして行く。価値組のあり方においては、負け組でもよいのである。

 負け組だからといって、それが反価値を意味するのではない。負けが反価値を意味するのだと、新自由主義の価値観になり、負けつまりだめつまり不要とされてしまう。負けを反価値とするのだと、反自由になり、(とくに負け組に)生き苦しさがおきてくる。

 政治をふくめて、勝ち組(と負け組)を、いかに価値組に転じられるのかがいる。勝ち組にしか価値はないのだとする、新自由主義による価値観を改めて行くようにしたい。

 自由や自由主義の危機は、勝ち組(と負け組)を価値組に転じることができないと、片づけることができそうにない。勝ち組をよしとするあり方であれば、勝たなければならないとか、負けてはならないとなり、何々でなければならないとなる。

 何々でなければならないのあり方は、価値観として人が生きやすいものではないから、そこをゆるめて、価値組に転じさせて、必ずしも何々でなくてもかまわないのだとして行く。必ずしも勝たなくてもよい、必ずしも負けたらだめなのではないのだとする。

 勝ち組の、何々でないとならないの価値観は、何々であるべきの当為(sollen)に当たる。価値組の価値観は何々であるの実在(sein)だ。勝ち組の当為ではなくて、価値組の実在のほうが楽さがある。いまの日本は新自由主義によっていて、勝ち組の価値観の(何々であるべきの)当為によることから、(何々であるの)実在が否定されてしまっていて、生き苦しさがおきている。

 参照文献 『「自由」の危機 息苦しさの正体』藤原辰史(ふじはらたつし)他 『右傾化する日本政治』中野晃一 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『「価値組」社会』森永卓郎 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし)