国葬と、日本人―日本人であることのかくあるの実在(sein)と、どうあるべきかのかくあるべきの当為(sollen)

 日本人であれば、安倍元首相をとむらうはずだ。日本人であれば、国葬をよしとするはずだ。そう言われているのがある。

 ほかには、日本人であれば、殺されてまだまもない安倍晋三元首相のことを批判しない(悪く言わない)はずだとするのもある。日本人であれば、何だかんだいっても、国葬が行なわれたあとには(事後には)、やっぱり国葬をやってよかったとなるはずだ、とも言われる。

 国葬や、安倍元首相について、日本人であれば、こうであるはずだといったことがいえるのだろうか。日本人であればこういうふうであるのにちがいないのだと言い切ることができるのだろうか。

 事実と価値の点から見てみると、日本人であるのは、何々であるの事実(is)だ。そこから、何々であるべきだの価値(ought)をみちびいてしまうと、自然主義の誤びゅうになる。

 げんみつに、日本人であることが原因となって、そうであればこうであるとする結果を言うことはできづらい。げんみつに原因から結果を導けるのであれば、日本人であることの原因が、こうであるとする結果を含意することになる。たとえば、日本人は親切だとか、日本人は正しいといったことを含意することになる。

 そこまでげんみつなものではなくて、もうちょっとゆるめたものである、社会科学の型(pattern)によって見てみたい。げんみつな原因と結果であれば、原因から結果が一〇割の確率でみちびかれるけど、それをゆるめて、社会科学の型によるようにして、だいたい六割や七割くらいがそうだとするようにしてみたい。

 その型があれば、(因果の関係があるとまでは言えなくても)だいたい六割や七割くらいはそうであるとすることがなりたつ。たとえば、すべての日本人は権威に弱いと言えるには、一〇割の確率(の因果の関係)でないといけないけど、そうした型があるのであれば、だいたい六割から七割くらいがそうであればよい。

 げんみつなものではなくて、ゆるいものである、社会科学の型を当てはめてみると、日本人であれば、国葬をよしとするのではなくて、むしろよしとはしない。国葬に反対する。国葬をよしとする型ではなくて、国葬に反対の型があり、その型が現実の日本ではなりたっている。よしとするよりも、反対している人のほうが、数として上回っていることが、国葬についての調査ではわかっている。

 国葬に反対の型がなりたっているとはいっても、すべての日本人が国葬に反対しているのではないから、一人勝ち型のものであるとはいえそうにない。国葬や安倍元首相について論争がおきているのがあるから、論争型のあり方になっている。

 日本人の範ちゅう(集合)があって、それはすごくたくさんの数の人たちによっている。量としてはたくさんの人がいて、そのたくさんの人たちが、みんな同じ質によっているのではない。量(外延)としてはたくさんの人がいるのがあり、質(内包)としてはいろいろなあり方があるから一義でこうだとは決めづらい。一つの質には落としこみづらい。

 この人は日本人の一人であるとはいえても、日本人が全体または総合としてどうかといったことは言いづらい。日本人である何々さんであれば、その何々さんはこうである、といったことはなりたつ。

 全体は非真実だと言っているのが、哲学者のテオドール・アドルノ氏だ。日本人の全体が、総合としてこうだとしてしまうと、非真実になる。あくまでも、日本人のうちの一人である何々さんはこうだと言えるのにとどまる。正確に言えばそう言えるのにとどまるだろう。

 事実であるのにとどまるのが、その人が日本人であること(または日本人ではないこと)だ。あくまでも事実にとどまるものにすぎず、価値については、日本人であればこうであるべきだとはできそうにない。

 価値については、日本人であるのよりも、日本人のうちの一人である何々さんであれば、どういうことをよしとする(またはよしとしない)、とはできる。

 ナチス・ドイツは、ユダヤ人について、そうであることの事実をもってして、価値のないものだと見なした。自然主義の誤びゅうによっていたのである。それと同じように、日本人であることの事実をもってして、そこからこうであるべきだとする価値をみちびいてしまうと、危なさがおきてくる。

 国葬では、事実から価値をみちびく危なさがおきているのがあり、それには批判を投げかけたい。日本人であれば、とするのであるよりも、日本人のうちの何々さんがいまの時点でさしあたって思うことであれば、こうである、としたほうが、自由の度合いが高い。

 価値についてである、こうあるべきだとか、こうあるべきではないといったことは、それぞれの人の自由にまかされていたほうがよいし、それは内面の自由によることがらだろう。日本人であることの帰属(identity)よりも、個人の個性(personality)が尊重されるのがのぞましい。帰属を重んじすぎて、個人の個性が否定されないようにしたい。帰属のしばりから逃れられる自由があったほうがよい。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『社会問題の社会学赤川学 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん)