消費税の減税(または廃止)や、給付金の支給と、それらについての議論のよし悪し―充実した質の高い議論こそがいる

 消費税を下げて行く。それをなくしてゼロにする。すべての日本の国民に、一〇万円を配って行く。一回だけではなくて、何回も配って行く。国民を助けることになるから、それがいるのだと言われている。反緊縮のものだ。

 反緊縮で言われていることは、すごくよいことだから、何が何でもやるべきなのだろうか。かならず現実化するべきことなのだろうか。

 反緊縮では、消費税を引き下げたり無くしたりするのや、国民にお金を配るのが言われているけど、そういった具体のことよりも、意思の疎通の交通のほうが大事だ。そう見なしてみたい。

 なぜ反緊縮の具体の政策よりも、意思の疎通の交通のほうがより重要なのかといえば、具体の政策を重んじてしまうと、成果の志向になってしまうからだ。成果を出すことが、いちばんに優先されてしまう。

 いっけんすると、成果の志向で、成果を出すことをいちばんに優先させるのは、よいことであるかのようだ。いっけんすると良いことのようだけど、そこにはわながあって、そのあり方は、安倍晋三元首相と同じあり方なのだ。

 安倍元首相のあり方は悪かったのがあるから、そこを重く見てみたい。成果の志向に強くよっていたのが安倍元首相であり、それによって、意思の疎通の交通がひどく軽んじられた。そこに大きな悪さがあったのがあり、理性の退廃(decadence)が強くおきていた。

 国民を助けるために、税金の負担を減らしたり、お金を配ったりするのは、それそのものが大事であるよりも、それについての議論こそが大事だ。議論がきちんとできていないと、まともな政策をやることはできづらい。議論の質と相関するのが、政策のよし悪しだ。

 だめな議論のやり方におちいってしまっているのであれば、いくら反緊縮の政策がよいのだとはいっても、ほんとうに国民に益になることはできづらい。ほんとうに国民に益になるようなよい政策をなして行くためには、成果の志向におちいらないようにすることがいる。

 成果の志向でやってしまうと、安倍元首相と同じわなにはまってしまうのがあるので、それを避けるようにしたい。安倍元首相と同じわなにはまるのを避けるためには、成果の志向によるのではなくて、意思の疎通を重んじて、了解の志向によるようにして行く。

 政策論においては、反緊縮が正しくて、緊縮はまちがっていて悪いのであるよりも、どういう議論がなされているかのほうがより大事だ。だめな議論におちいっているのであれば、反緊縮であろうとも、緊縮であろうとも、どちらであったとしても、よい質の議論ができていないのをしめす。それだと良い政策をなしづらい。

 どういう中身の政策かに重みを置いて、そこに力点を置いてしまうと、成果の志向におちいりやすい。そうするのを避けるようにして、どういう質の議論がなされているのかに力点を置くようにして、きちんとした議論をやるようにするべきだ。過程(process)にすごく労力をかけるようにして行く。

 緊縮と反緊縮との二つの立ち場のあいだで、しっかりとした意思の疎通の交通をやって行く。二つの立ち場のあいだで、どれだけ建設的な議論ができるのかがかぎになる。民主的で効果のある議論をやって行くことができるかどうかが求められる。頭から、この立ち場は正しいけど、この立ち場はまちがっていて悪いのだと決めつけてしまうと、建設的な議論ができづらい。そういうふうにやってしまうと、成果の志向におちいることになって、安倍元首相と同じわなにはまってしまう。

 参照文献 『思考のレッスン』丸谷才一 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『新版 ダメな議論』飯田泰之(いいだやすゆき)