国の防衛と、発想のちがい―日本はどういう発想によるようにするべきなのか

 攻撃の力を持てるようにする。そうすれば、日本の国の安全は高まるのだろうか。危険性を低められるのだろうか。

 日本の国を防衛するためには、国の軍事の力を上げて、攻撃する力を持てるようにしても、よくはたらかない。悪くはたらく。そう見なしてみたい。

 なぜ軍事力を上げる強兵のあり方が、かえって悪くはたらくのかといえば、それがふつうの発想から出てきてしまっているからだ。日本の国から出てくるふつうの発想の延長線上にあるものだからである。

 ふつうの発想ではなくて、もっとちがった発想をもつ。ふつうとはちがう発想を持つようにすれば、日本の国の安全は高まる。国の防衛が強まって行く。

 いっぷう変わった、逆転の発想をもつようにすることで、国の防衛が強まるのがあり、それはどういったことなのかといえば、遠近法(perspective)によるものである。

 遠近法で、ふつうだったら遠いものはますます遠ざけて、近いものはますます近づけて行く。そういうふうにしないで、遠いものを近づけて行く。近いものを遠ざけるようにする(または、遠ざけるのではないにしても、ますます近づけるのではないようにする)。遠いものを近づけるのは、よき歓待(かんたい)や客むかえ(hospitality)だ。遠いものとの交通だ。

 何のへんてつもないふつうの発想によるのだと、遠いものは遠ざけて、近いものは近づけるだけだから、そこから自国にとっての敵を作り出してしまう。敵を作り出してしまうと、敵をやっつけるといった発想になってしまう。

 敵を作らないようにして、それを生み出さないようにすることが、いかにできるのかがある。そこに、日本の国の防衛のかぎがある。それができるかどうかによって、日本の国を守ることができるのかが左右される。

 たとえ軍事の力を高めて強兵にしたとしても、それはごくふつうの発想によるものだから、日本の国は安全にはならず、かえって危険性が高まって行く。ふつうの発想を転じることにはならず、それをますます強めてしまうから、どつぼにはまって行く。

 どういうふうな努力を日本の国はするべきなのかといえば、ごくふつうの発想から脱することだ。国の防衛では、それをやるように努力することがいる。発想を転じるようにして、へんなもの、おかしなもの、ずれたもの、日ごろ行なわれづらいもの、といったような発想によるようにして行く。

 発想を転じるようにすることがいるけど、日本はそれをやることができていなくて、努力が行なわれていない。怠慢によっている。遠近法を変えて行くようにすることについての努力がなされていないのが日本であり、努力ができていないから、国の防衛がどんどん弱まっていっていて、それが強まる見こみはぜんぜんたっていない。発想を転じるようにしないかぎりは、国の防衛が弱いのが改まる見こみはたたない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき)