政治家は、(運動の競技で)日本のことを応援しないとならないのか―日本ではない国(他国)を応援してはいけないのか

 政治家であれば、日本の代表を応援するべきだ。国際的な運動の競技の大会では、そうするべきだと言われていた。

 日本の国の政治家なのであれば、日本の代表の選手やその集団を応援するべきなのだろうか。ほかの国の選手や集団を応援してはいけないのだろうか。

 たしかに、日本の国の政治家なのであれば、日本の国を代表する選手や集団を応援するべきだとするのは、言わんとしていることはわからないではない。まったく理解できないといったほどのことではない。

 政治家とはいったいどういうものなのかといえば、国民そのもの(presentation)に当たるものではない。国民そのものとはずれているものであり、国民を代理(representation)するのにすぎないのが政治家だ。

 どこの国を応援するべきなのかは、価値にまつわることであり、価値については自由であったほうがよい。一つの価値だけが正しいのだとしてしまうと、上から正しさを押しつけることになってしまう。

 国の中には、いろいろな考えをもつ人たちがいるのだから、その中には、日本を応援する人もいれば、そうではない人もいる。かくあるべきの当為(sollen)は置いておいて、かくあるの実在(sein)のところを見てみると、日本のことを応援しない日本人や日本の国民もまたいるものだろう。

 たとえ日本人または日本の国民だからといって、日本のことを応援するとはかぎらない。その人が日本人または日本の国民だからといっても、日本のことを応援することを含意しない。日本人または日本の国民であれば、日本のことを応援するとはいえず、ちがう国を応援することもしばしばある。

 原因と結果の因果によって見てみると、原因に当たるものとしては、日本人または日本の国民があるけど、そこから、日本のことを応援するとの結果を必ず導けるかといえば、それはできそうにない。結果が一つだけではなくて、いくつもの結果をみちびき出せる。

 たとえ日本とほかの国が、運動の競技の大会で戦い合っているのだとしても、日本よりもほかの国(日本の対戦の相手の国)のほうがより魅力が高いことがある。魅力がより高い方にひきつけられることがある。日本に魅力がないのだとしたら、無理をしてまで応援する必要はない。お義理やお情けで日本のことを応援してもしかたがない。

 物語論で見てみると、もしも大きな物語がなりたつのであれば、日本人または日本の国民である原因から、まちがいなく日本のことを応援する結果をみちびけるだろう。そうした大きな物語の、原因と結果の線(linear)の結びつきがくずれていて、小さな物語しか成り立ちづらくなっているのがいまのありようだ。

 たとえむりやりに、日本のことを応援せよと、政治家に強いたのだとしても、その政治家の本心が別のところにあるのであれば、心ここにあらずみたいになってしまいかねない。お義理やお情けで、日本のことを応援させても、あまり良いことにはなりづらい。

 義理には、冷たい義理と温かい義理があって、冷たい義理は人情をともなわない(つまりお義理)。温かい義理は人情をともなう。良いところばかりで、悪いところが少しもないのが日本の国であるのならともかく、きびしく見れば悪いところだらけなのが日本の国であり、色々に批判をしないとならないところをもつ。

 手ばなしでそんなに温かい義理をもてるような国ではないのが日本だから、どこの国を応援するかなどの価値にまつわることがらについては、政治家をふくめて、(こうせよと上から強いるのではなくて)できるかぎり自由であったほうがよい。そのように見なしてみたい。

 自由であったほうが、日本ではないちがう国を応援することもできる。ちがう国を応援するのだとしても、それはあくまでもその政治家の自己決定権または愚行権に当たる。ちがう国を応援できたほうが、むしろ日本の国にとらわれていないし、しばられていないのだから、日本を応援するよりも、よりよいことだともできる。

 日本を応援せず、ちがう国を応援できたほうが、むしろ政治家としてふところが深い見こみがある。ほかの国なんかどうでもよくて、とにかく日本さえ勝つことができればそれでよいのだとするのは、政治においては器が小さい。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『義理 一語の辞典』源了圓(みなもとりょうえん)

政治における、最小の道徳や倫理―一つのことを、押さえられるか押さえられないか(視点や立ち場の入れ替えの可能性)

 これだけはぜひとも守らないとならない、政治家にとっての道徳や倫理とはいったい何なのだろうか。

 さいていでも、これだけは守るようにしたい。それに当たるのが、自由主義(liberalism)だ。

 たった一つだけ、これだけは守らないとならないこととしてあげられるのが自由主義であり、最小の道徳や倫理だ。

 あれもこれも守らないとならないのではなくて、せめて一つくらいは大事なことを守らないと、すべてが総くずれになってしまう。

 視点の反転の可能性の試しが自由主義にはあって、これだけはせめてやるようにしないと、すごい退廃(decadence)がおきてしまう。

 自由主義がこわれてしまっているのがいまの日本の政治だから、退廃がおきていて、不道徳や非倫理になっている。与党である自由民主党の政治家を見るとそれが見てとれる。

 政治では、何かをやるさいに、自由主義の視点の反転の可能性の試しをもち出すようにする。いまもっている視点とはちがう視点を持ち出すようにして、ちがう視点であっても同じことが言えるかどうかや、ちがう視点であったらどういう行動をとるのがふさわしいのか(同じ行動をとるのがふさわしいのかどうか)を見て行く。

 色々といくつもやらないとならないのではなくて、せめてこれ一つくらいはちゃんと押さえておかないとならないと言えるのが、自由主義によるものだ。そこがくずれてしまっていて、押さえられていないのがいまの日本の政治だ。さいていげんの一つのところが崩れてしまっているから、もととなるものが無になっている。

 自由主義がこわれているのと、いまの日本の憲法が守られていなくてないがしろにされているのとは、関わり合う。自由主義で、視点の反転の可能性の試しをやるのは、近代の立憲主義憲法を守ることに等しい。きちんとした憲法であれば、いまとはちがう視点をもたらしてくれるから、憲法をよりどころにして、それをしっかりと守るようにすれば、それが自由主義を保つことになる。

 迷ったら、原点に帰るようにする。その原点にあたるものなのが、政治においては、自由主義だろう。原点に帰るようにして、色々といろんなことをやるよりも、まずこれ一つだけは(それ一つくらいは)せめてきちんと押さえておこうと言えるものがあって、そこを押さえることすらないと、すっからかんになり、道徳性や倫理性が〇になってしまう。いまの日本の政治は、道徳性や倫理性が〇になっているように映る。こわいことになっているところがある。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『憲法という希望』木村草太(そうた)

消費税と、軍事―(財政の)緊縮と、反緊縮と、軍拡と、反軍事(軍縮)

 国を守るために、税金をとって行く。増税することがいるのだとされている。それは本当にいることなのだろうか。

 人が生きるためのことに税金をかけてしまっているのが消費税だとされるのがある。それでいえば、人を殺すためのものに税金をかけるのが、軍事に税金をかけることだろう。

 比べてみられるとすると、かりに消費税が悪いのであるとすれば、軍事にお金をかけるのはなおさら悪いことだろう。より強い理由(a fortiori)によって、軍事のほうこそを批判して行きたい。

 なぜ、消費税よりもなおさら軍事にお金をかけるのが悪いのかといえば、消費税が生きることにたいしてお金をとり立てるものなのだとすれば、それよりもさらにすすんで、人を殺すためのことにお金をかけるのが軍事にお金をかけることだからだ。そっせんして人を殺す目的のためのものなのが軍事だ。

 きびしく正当性を問いかけて行くことがいるのが、軍事にお金をかけることだろう。軍事にまつわることで、あれもこれもいっぱい必要だとしてしまうと、許容の範囲が広がってしまう。たくさんの税金を払うことになってしまう。

 軍事への許容の範囲が広いと、すごいたくさん税金を使うことになってしまうから、それを防ぎたい。必要性がねつ造されているうたがいが高いのが軍事だから、正当性をきびしく問いかけて行くことがいる。

 国民を守るものではなくて、あくまでも国体を守ろうとしているのが軍事だ。国体は日本においては天皇制だ。あと国の外にはアメリカがあって、アメリカを守るのもあり、アメリカの手下として日本がかり出される。帝国であるアメリカの傭兵(ようへい)に当たるのが日本だ。アメリカは手を汚さずに、帝国の傭兵である日本に手を汚させて、やらせる。

 国体なんか守ってもしようがないものであり、国民を守るためであれば軍事は必ずしもいるものではないだろう。いまの日本の憲法で許されている、必要の最小の限度の実力(軍事力)を持つのにとどめるようにする。

 国民を守るわけではないのだから、守ったってしようがないものなのが国体であり、それからすると、軍事にかけるお金の許容の範囲はせまいものになる。ごくせまい範囲しか許容されないのが、軍事にかけるお金だ。

 消費税であるよりも、むしろ軍事にお金をかけることこそに、反対の声をあげたい。消費税では、その使いみちなんかでうそがつかれているのは否定できないが、それでいえば、軍事でもうそがばんばんつかれている。必要もないのに、軍事が必要だとしてうそがつかれまくっている。

 人それぞれで、何を許容するのかの範囲(のせまさや広さ)がちがうから、自由に色々なものごとを見なして行ける。自由にいろいろ見ていって、いろいろな声をあげたりあげなかったりしてよいのがあるけど、その中で、消費税であるよりは、むしろ軍事にお金をかけることこそに、反対の声をあげて行きたい。

 人を殺すためのものなのが軍事だから、それにお金を使うのは、よくよくのことでなければ許容したくないものである。許容するにしても、いまの日本の憲法で許されるごくせまい範囲にとどめるようにして、それを超えないようにしたい。かなりの歯止めをかけるようにして、軍事ではなくて、ほかの文化や人の生存のことなどにお金を使えるようにするべきだ。

 軍事もまた、国を守り、人の生存に益になると見なす見なし方があるけど、それはうたがわしい。兵器は、人を殺すためのものだから、人の生存とは逆のものだととらえたい。たとえじかに人を殺さないのだとしても、軍事では、人を物のようにあつかうのがあって、物とはつまり死だ。軍事を強めると、どんどん死の欲動(thanatos)へと向かっていってしまう。人を物のようにあつかうことになり、それは死を意味するものである。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『「自由」の危機 息苦しさの正体』藤原辰史(ふじはらたつし)他 『希望と絆 いま、日本を問う』(岩波ブックレット)姜尚中(かんさんじゅん) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし) 『憲法という希望』木村草太(そうた)

力が強いようでいて、自民党は、弱体化や劣化や退化していっている―質が悪くなっていっている

 いまの時点で、与党と野党を比べてみると、どちらのほうがましなのだろうか。

 よく言われるのが、野党よりかは、まだ与党の自由民主党のほうがましだとされるのがある。

 野党のことはひとまず置いておいて、自民党だけをとり上げてみると、自民党はむかしよりも質が落ちている。劣化している。

 日本では政党どうしの政党間競争(party competition)がない。(開かれた中での)競争をしてはいけませんといったようになっている。お店でいったら、自民党の一社が独占して物を売っているようなものだろう。ほかのお店とのあいだの競争がないから、お客さんが自民党の一社だけから物を買わざるをえない。

 ふつうだったら、何かのものがあったとして、それがだんだんに質が向上して行かないとならない。だんだんに成長して行かないとならない。そうでないと、その世界(政治の世界など)の中で、それがずっと持続してありつづけている意味がない。きびしく言えばそう言えそうだ。

 だんだんに質が向上していって、成長していっているどころか、その逆に、だんだんに質が落ちていって、劣化していっているのが自民党だ。これは変なことだ。それが変なことなのは、何かが生き残り(survival)つづけているのは、それがどんどんより良くなっているのでないと、つじつまが合わないからだ。

 良いものが生き残りつづけているのならまだつじつまが合うけど、悪いものが生き残りつづけているのは、りくつに合わないところがある。悪いものだったら、とうたされていてもおかしくはない。たとえば、経済だったら、悪い商品は、市場の中でとうたされたほうがよい。

 いまとかつてのいまかつて間の時間の交通で見てみると、かつての自民党は、まだよこ並びのところが弱かった。自民党の中で、二本の軸があって、それによって右と左のようにできていた。

 二本の軸では、土着の保守と、自由主義(liberalism)の保守があったとされる。自民党の中にその二つがあったのである。二つのうちで、一つがだめなら、もうひとつのものにするといったように、交互にやっていた。

 二つあるうちで、一つがだめなら、もう一つでやるようにするのは、不確実性への備え(contingency plan)になるものだ。一つがだめならそれでぜんぶがおしまいになるのをいちおうは避けられる。

 かつてとはちがって、いまの自民党は、一本の軸しかなくなっている。自由主義の保守がなくなって、土着の保守しかなくなっている。土着の保守がうんと力をもっていて、それがすごい幅をきかせている。

 自由主義がこわされてしまっていて、土着の保守しかいなくなっているのがいまの自民党だろう。かつては二本の軸があったのが、いまでは一本の軸しかない。その一本の軸だけによることで、すごい強いかのようにしているけど、そこには不安定さがある。

 すごい強いかのようになっているのは、いまの自民党では権威主義が強まっているからだろう。権威主義によることで、民主主義が失われている。権威主義だと、すごい安定していて強いかのようではあるが、いざとなったらかなりもろい。大きく崩れることになる。

 よこ並びで、同じあり方しか許さなくなっているのがいまの自民党であり、一色しかないあり方になっている。ほかの色(たとえば左派のあり方など)を許さない。それだと、不確実性への備えをもてないし、多様性を持てない。多様性がないと、安定を欠くから、いざとなったさいに大きく崩れることになる。いざとなったさいに、みんながとも倒れのようになってしまう。

 かつては二本の軸があったから、よこ並びがそこまで強くはなくて、たしょうの多様性はあった。土着の保守だけではなくて、自由主義の保守もまたいた。いまの自民党は一本の軸しかなくなっているから、よこ並びが強くなっていて、特殊なほうへとどんどん傾斜していっていて、いまにいたっている。

 特殊なほうにどんどん進んでいっているのがあって、普遍のものである自由主義がこわされている。特殊なほうに進んでいってしまうと、民主主義ではなくなり、権威主義原理主義になる。いまの自民党は、民主主義をやっているつもりが、それが横すべりして、専制主義になっているのがあり、悪いあり方に転落している。

 専制主義のあり方だと自由がなくなるから、それを改めるようにして、自由主義を立て直して行きたい。日本の国はすごいみたいにしてしまうと、特殊なほうにどんどん進んでいってしまい、専制におちいる。

 日本は、特殊なほうに向かって行きやすいのがあるから、それに歯止めをかけて、普遍のものである自由主義によるようにして行きたい。いまの自民党は、特殊さによるのが大きすぎるのがあり、普遍のものがなくなっている。専制のあり方になっているのがあるから、それを改めて、いかにして自由の気風を立て直すことができるのかが大事だ。国の政治などで、反自由であるのを、何とかして改めたいものである。

 たて並びの階層(class)の格差と、よこ並びの反自由とがおきているのがあるから、それを改めて行く。脱構築(deconstruction)をして行くことがいるのがある。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『右傾化する日本政治』中野晃一 『民主主義の本質と価値 他一篇』ハンス・ケルゼン 長尾龍一、植田俊太郎訳 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『歴史を繰り返すな』坂野潤治(ばんのじゅんじ) 山口二郎 『新版 ダメな議論』飯田泰之(いいだやすゆき) 『「自由」の危機 息苦しさの正体』藤原辰史(ふじはらたつし)他

日本の医療の世界は、努力が足りていないのか―医療は、なまけているのか

 医療にたずさわる人たちの、努力が足りない。もっと努力しないとならないけど、それができていない。ウイルスへの感染がつづく中で、医療の関係者を悪玉化することが言われていた。

 努力が足りていないのが、医療の世界なのだろうか。そう問いかけてみると、努力が足りないのは、医療の世界であるよりも、それをとり巻く人々(国民)のほうである。そう見られそうだ。

 みんながものすごく健康に注意して、健康な生活をおくるように最大の努力をすれば、医療にかかる人が減る。医療にかけるお金を最小にすることができる。節約できる。

 むずかしさがあるのが医療だと見なせるのがあって、むかしは治せなかった病気が、科学が進んだことで治るようになった。そのいっぽうで、いまだに治すことができない病気はいっぱいあるし、病気の数がどんどん増えていっている。

 根本から治すことができない病気は色々にある。かぜひとつをとってみても、かぜの根本の原因はわかっていないとされていて、根本から治すことはできない。表面の対症の療法しかできないものは少なくない。

 すごい強みをもっているのが西洋の医療だけど、欠点もまたある。悪くなっているところを速くに治すことができるのが利点であり、速効性をもつ。器質がおかしくなっているのを治すのに長けている。そういう強みはあるけど、欠点としては、機能がおかしくなったり弱まったりしているのは、何とかしづらい。機能の弱まりを、向上させづらい。

 効力感と無力感の二つがあるとすると、西洋の医療は、効力感をもっているのがあるともいえるし、無力感があるともいえる。そのどちらもあるものだろう。効力感をもっているから、病気を治すのにすごい力があるけど、その裏を見てみると、うまく治すことができない病気もいっぱいあるから、無力感もまたある。無力でもあるのだ。

 空いている空白を埋めるのが西洋の医療のやり方であり、何かの手を打って、空白をなくして行く。積極のものだ。空白をあけたままにして、何も手を打たない消極のあり方を、うまく説明できない。ほかに西洋の医療では説明できないこととしては、科学を超えた奇跡を説明することができない。

 文明がすすんで、とても便利な生活をおくれるようになったけど、それによって人の体が弱まっていっている。たとえ医療がどんどん進んでいっているのだとしても、それと反対に人の体がどんどん弱まっていっているのもあるから、医療がすすんでいるのが(人の体の弱まりに)追いつかない。

 世界でみたら、日本の食は健康によい。もともとはそうだけど、いまは世界主義(globalization)が進んでいっていて、アメリカ化や西洋化が進んでいる。日本の食はアメリカ化や西洋化しているのがあるから、食が不健康になっているところがある。どうしても、食べておいしいものは体に悪いところがあるから、そこが悩ましい。

 いまは世界じゅうでウイルスへの感染がおきていて、医療がひっ迫している。医療にたずさわる人たち(そのほかの対人の労働の人たちも)は、とんでもない努力を強いられている。すごい神経を使わせられている。(あれせよとかこれせよとかの)たくさんの要求がつきつけられていて、要求の量が増えていて、疲労がとれない。さわやかな疲労ではなくて、ぐったりとした疲労がたまる。

 すごいたいへんになっている状況の中で、医療といえば、ふつうは西洋の医療を連想するけど、それには利点もあれば欠点もあるし、効力感もあれば無力感もある。強みもあれば弱みもあるから、一つの視点からだけではなくて、もっとちがう視点からも見られるのがありそうだ。たとえば西洋を標準とするだけではなくて、東洋のあり方を見直すようにしてみる。西洋は分析のあり方だけど、東洋は包括(包摂)のあり方だから、そのよさもまたあるだろう。

 参照文献 『木を見る西洋人 森を見る東洋人―思考の違いはいかにして生まれるか』リチャード・E・ニスベット 村本由紀子訳 『目からウロコのネジレ学入門 すべての病気は背骨の捻(ね)じれから』浜田幸男 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『おいしさを科学する』伏木亨(ふしきとおる) 『医者のいらない暮らしがしたい』丁宗鐵(ていむねてつ) 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『疲労とつきあう』飯島裕一 『河合隼雄対話集 科学の新しい方法論を探る』河合隼雄(はやお)

ロシアだけではなくて、ウクライナも批判されるべきなのか―ウクライナへの批判はいらないのか

 ロシアの大統領だけが批判されているのはおかしい。ウクライナの大統領も批判されてよいはずだ。森喜朗元首相はそうしたことを言ったという。

 森元首相がいうように、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領だけではなくて、ウクライナの大統領もまた批判されるべきなのだろうか。

 戦争をしかけたのはロシアなのだから、なによりもロシアのプーチン大統領が批判されるべきだろう。

 人それぞれによって色々な見なし方があるだろうけど、森元首相の言うことにも一理あるところがないではない。ひんしゅくを買ってしまうかもしれないが、そう見なしてみたい。

 ロシアの長とウクライナの長の二人を比べてみると、共通点と相違点がある。

 共通点としては、どちらも政治家(大統領)だ。政治家は国民そのもの(presentation)ではなくて、国民の代理(representation)だ。

 ほかの共通点としては、どちらも国家主義(nationalism)によってしまっているところがある。国家主義によって国の中をまとめようとしている。自国は正しいことをやっているとか、自国はよい国だといったことで、自国の国民をあおり、たきつけている。戦争へと人々を動員(mobilize)している。

 内部で結束する(bonding)のと、国どうしなどの橋わたし(bridging)があるけど、ロシアもウクライナも、内部で結束を強めるのにとどまっている。それが主になっている。前もって橋わたしの交通にすごい力を入れていれば、ロシアとウクライナが戦争をやるのを避けられたかもしれない。橋わたしによるようにして、国を超えた脱国家主義(trans nationalism)によって行く。

 ひとたび戦争がおきてしまったあとでも、すぐに橋わたしに力を入れれば、戦争を早めに止められるかもしれない。そうではなくて、戦争がおきているさいちゅうに(も)、内部で結束を強めてしまうと、戦争が長びいてしまう。

 お互いに国どうしなどが対立し合うと、おたがいに似てきてしまうところがある。似たものどうしが対立し合うようなことになることがある。似ても似つかないような月とすっぽんのようなものどうしだと、次元や水準が食いちがうから、対立はおきづらい。

 相違点としては、政治家としてまったく同じ水準なのではなくて、ロシアの長は劣っていて、ウクライナの長のほうが優れているのはあるだろう。どちらのほうがましかといえば、ロシアの長よりもウクライナの長のほうがまだましだ。

 ウクライナの国民を批判するのとはちがって、ウクライナの政治家を批判することはできそうだ。政治家のなすべきこととしては、できるだけまわりの国と仲良くして行く。日ごろからまわりの国と仲良くしておいて、できるだけ戦争がおきないようにして行く。外交の交通の努力を日ごろからこつこつと地道に積み重ねて行く。

 色々な見かたが戦争にたいしてはできるけど、一つには、合理によるのであれば戦争は避けられるとするのがある。二つの国があって、いっぽうの国が合理により、たほうの国も合理によるのであれば、合理の落着の点にいたれる。合理の落着の点は、戦争を避ける平和のあり方だ。

 どちらかが不合理だったり、どちらも不合理だったりすると、国どうしが戦争をやり合うことになってしまう。ロシアが不合理なことをやって戦争をしかけたのはあるけど、ウクライナウクライナで、合理の落着の点にもって行くための最大限の努力を政治家がしていたのかどうかは、必ずしも定かではないかもしれない。

 戦争がおきてしまったら、合理の落着の点にいたるのに失敗したことになるから、その点では、戦争をやっている国の政治家は批判される見こみがある。まったくいっさい政治家にたいして批判がいらないとまでは言い切れそうにない。

 ロシアだけが批判されるべきであり、ウクライナには批判はいらないとするのがあるけど、それとはちがって、(ウクライナの国民ではなくて)ウクライナの政治家にたいしては、もしかしたら批判をすることがいるかもしれない。

 政治家は表象だから、表象にたいしての批判はいる。国民そのものとずれてしまうのがあるのが表象であり、国民にうそをつくことが少なくない。政治家は語り(カタリ)によるのがあるから、そこに気をつけることがいる。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『政治家を疑え』高瀬淳一 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき)

消費税を減らせば、困っている人たちを救うことになるのか―日本人だけが救われればそれでよいのか

 生活に困っている人をすくう。助ける。そのために、消費税を引き下げたり無くしたりするべきなのだろうか。減税をすることが、人を救うことになるのだろうか。

 人を救う点では、そもそもの話として、日本人とはいったい何なのかのわからなさがある。日本の国とはいったい何なのかがよくわからない。

 減税をして、それによって人を救うといったさいに、どういう人を救うのかがある。救う人を、日本の国の内とその外とに分けられる。

 日本の国の内に、困っている人がいるのはあるけど、国の外にもいっぱいいる。国の内にいる人たちは助けて、国の外にいる人たちは放ったらかしでよいのだろうか。

 外といえば、日本の国の内に外がある。内の中の外があって、外を内に抱えこんでいる。いまは世界主義(globalization)がすすんでいるのがあるから、国の内と外とをはっきりとは分けづらい。

 いまは、世界の国どうしがつながり合っていて、そのつながり合いが深まっているのがある。そうした中で、日本の国の体系(system)の自明性が揺らいでいるのがあり、それが崩れている。

 日本人か、日本人ではないかの、はっきりとした区別をしづらくなっているのがあり、その中で、困っている人がいるのであれば、日本人であろうとも、そうではなかろうとも、すくうようにするべきだ。すくわなければならない。そういった見なし方もなりたつ。

 いまは、体系としての日本の国や、日本人とは何かについての自明性が揺らいでいて崩れているのがあるから、その中で、困っている人たちを救うのは、困難さがある。言うほど易しいことではないところがある。困難さがあるのは、(日本の国だけではなくて)地球の広さでとらえることがいるからだ。

 地球の広さで見たさいには、世界の中で部分の集合に当たるのが日本の国であり、それを超えた全体の集合である世界を見て行くことがいる。全体の集合である世界において、富や財がみんなに平等に分配されることがいるものだろう。

 世界はあるとは言えるけど、日本はあるとは言えないのがあり、いろいろな国のおかげで成り立っているのが、部分の集合としての日本だ。日本はあるとは言えないのがあることから、その自明性が揺らいでいて崩れてきている。

 ほかの国々なくして、日本の国はないから、困っている人を救うといったさいには、日本の国や日本人の枠をとり外すことがいる。日本人であろうとも、そうではなかろうとも、困っている人たちをすくう。それが、困っている人たちを救うことの意味になる。そうなると、日本の国を超えた、地球の広さのことになるから、すごい困難なことになる。地球の広さで、富や財が偏在してしまっているのがあるから、その富や財のむらをなくして、平らにならして行く。

 地球の広さから見て、日本にとくに富や財がかじょうにあるのなら、困っている人たちをすくうために、日本にある富や財を、日本の外にむけて分配して行く。日本が富や財をたくさん得ようとして、ひとり占めしないようにして行く。

 日本が富や財をかじょうに得すぎているところがあるとしたら、それをなくして行き、(持ち分を)手ばなして行き、度をこえたぜい沢をしすぎないようにすることもいる。欲望にはかぎりがないから、どこかで定常の経済にすることがいるだろう。欲望とはちがって、地球の資源にはかぎりがあるから、資源をむだづかいするのに歯止めをかけたい。

 参照文献 『貧困の倫理学馬渕浩二 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける) 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『歴史家が見る現代世界』入江昭 『「定常経済」は可能だ!(岩波ブックレット)』ハーマン・デイリー 枝廣(えだひろ)淳子(聞き手)

うそつきの役所なのが、財務省なのか―日本でいまつかれている(かもしれない)うそと、これまでにつかれたうそ

 国民にうそをついたり、国民をだましたりする。それで増税をしようとしているのが財務省なのだろうか。

 ほんとうは増税をすることはいらないのに、さもそれがいるかのようにしているのが財務省やそこの役人だとされるのがある。

 役所(省庁)や、役人のつくうそがある。うそにおいては、財務省はそこまでそれをついているのだとはいえそうにない(たぶん)。

 どういったものがうそをつきまくってきたのかといえば、財務省ではなくて、かつてをふり返ってみると、かつての建設省である。

 建設省は、日本の色々なところに公共事業をやるためにうそをつきまくっていた。作ることがいらないのに、それを作ることがいるかのようにうそを言いまくり、それでいらないものをいくつも作ってきた。

 自分たちが作りたいものを作るためだったら、いくらでも国民にうそをついてもかまわない。うそをつくことをいとわなかったのが建設省だった。

 土建(屋)の国だったのが日本であり、その中でたくさんのうそがつかれて、土建屋がうるおった。国の経済がそれで成長していったのがある。

 たんに、日本の国の経済をよくして、成長させることだけであれば、建設省がついたいくつものうそは、そこまで悪いことではないだろう。役所や役人がうそをつくことで、土建屋をうるおわせることができたのがあるし、いろいろな箱ものを作るのとか公共事業をやることができた。

 よいことばかりだとか、良いことだけだったのかといえば、そうではなくて、国の経済はすごい成長したのはあったけど、そのかわり非倫理におちいってしまったのがあった。役所や役人が、国民にうそを言いまくったのがあり、うそをついてまでしていらないものをどんどん作っていったのである。

 かつてをふり返ってみると、日本は土建の国だったのがあるから、財務省であるよりも、建設省がうそをつきまくっていたのがあった。うそをつきまくることによって日本の国の経済がよくなって成長したところがあったのである。

 これまでに、かつての建設省などがうそをつきまくってきたのがあって、それの負の遺産なのが、いまの日本の財政のぼう大な借金だろう。日本にぼう大な借金があるのは、いろいろな要因によっているものだけど、そのうちの要因の一つには、役所や役人によるうそや、いらない箱ものなどをいくつも作りまくってきたことがある。

 どちらかといえば財務省はそこまでうそをついていないだろうけど(たぶん)、かつての建設省などの、そのほかのところがうそをついて国民をだましてきた。国民もまたうそを甘く許していたのである。うそにきびしくなかった。お上(かみ)にはさからわずにしたがうあり方をとってしまったのである。

 西洋の個人主義とはちがって、日本は関係の主体(referential subject)だから、お上がつくうそに甘くなりがちだ。西洋の絶対の主体(absolute subject)だと、お上を批判しやすいから、お上のうそにきびしくできやすい。主体のあり方のちがいがあり、日本の関係の主体はうそを許しやすい。

 かつての日本では、役人がすごい力をもっていて、官僚が国を支配していたのがあり、国民にたいしてへいきでうそをつきまくっていた。国民もそのうそを甘く許したのがあり、日本の国そのものが、うそに甘いところをもつ。うそにきびしくない。それでいまは日本の国は財政でぼう大な借金をかかえることになっている。

 財務省が悪いのであるよりは、もっとうんと悪い省庁がかつてはあった(建設省など)のがあって、その悪さの結果を示しているのが、いまの日本の国の財政のきびしさ(不健全さ)だろう。財務省が悪いのであるよりも、もっと広く見られるのがあって、日本の国が悪いのがあり、日本はうそに甘すぎるのが悪い。

 国のぼう大な借金とともに、(これまでにたまりにたまった)うそによってほろびかねないのが、いまの日本である。きびしく見ればそう見られそうだ。歴史でもうそをついていて、歴史修正主義によっている。

 参照文献 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『ダムはいらない! 新・日本の川を旅する』野田知佑(ともすけ) 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『環境 思考のフロンティア』諸富徹(もろとみとおる)

日本は(消費税などを)増税をするのがいるのか―日本の国の財政の謎(mystery)と、その意識化

 消費税を引き下げたり無くしたりするのは、正しいことなのだろうか。

 日本の国はいま財政がとんでもなくきびしくなっていて、借金がたまりまくっている。その中で増税がいることが言われているけど、その反対に減税をするべきだとするのも言われている。

 増税をするべきだとするのは、緊縮の財政だ。減税をするべきだとするのは、反緊縮のあり方だ。

 日本のいまの財政のありようは、(ぼう大な借金があることから)すごい問題を抱えているともされているし、その反対にまったく問題はないとされているのもある。

 たとえば、どこかの家だったら、その家がぼう大な借金を抱えていたら、家の経済はたちまち破産する。その家はやって行けなくなる。

 どこかの会社だったら、そこがぼう大な借金を抱えていて、それで社長がのんきにしていたら、よほど危機の意識がない人だろう。どこの会社でも、たくさんの借金を抱えるなどで会計の状況が苦しくなれば、従業員の首を切るなどをせざるをえなくなる。継続企業(going concern)のためには会社がつぶれないようにしないとならない。

 とんでもない借金をかかえている家または会社があって、その家や会社がいつまでもつぶれないでありつづけているのだとしたら、その家や会社はふしぎな存在だ。なんでその家や会社がつぶれないのかが謎だ。

 つぶれていなければおかしいのに、いつまでもありつづける家や会社のようなものなのが、いまの日本の国だろう。借金をぼう大にかかえていて、借金を増やしつづけているのに、その家や会社がつぶれなかったらおかしいのと同じように、日本もまたおかしいあり方になっている。

 よいか悪いかをいったん置いておけるとすると、日本の財政には謎がある。その謎が意識化されていなくて、あんまりとり上げられていない。謎があるけど、それがそこまで注目されていない。

 謎といえば、答えの数がどれくらいなのかがある。答えが一つあるのが謎解き(puzzle)だ。答えがいくつもあるのが葛藤(dilemma)だ。答えが〇なのが矛盾(paradox)だ。

 世界の七不思議とか、いまだに科学でわからないことなんかが色々にあるけど、そういう不思議さがあるのが日本の国の財政だろう。不思議なことだけど、いまのところは日本の国はつぶれていないのである。これから先は未知ではある。

 がけの上に家が建っていて、がけがいまにも崩れそうだけど、危うい均衡でまだ家ががけの上にありつづけている。そういったようなものなのがいまの日本の国だと言えそうだ。これから先には、がけが崩れて、家がつぶれてしまうおそれがある。いつがけが崩れてもおかしくはない。

 すごい危ういことがあって、その危うさがいつおきてもおかしくはないのに、それがいまのところはおきていない。危ういことがおきる可能性が高いのに、いまのところはそれがおきていないから、そこに謎がある。

 危うさがあっても、じっさいに危ういことがまだ起きていなければ、べつに危うくはないんだみたいに見なされてしまう。ぜんぜん危うくなくて安全だみたいにされてしまう。少しも謎なことはなくて、たんに安全なのだから、危うくはないだけだといったとらえ方がなされる。

 家がつぶれるとか、会社がつぶれるのは、そういうできごとがじっさいに起きないと、まちがったあり方が反省されづらい。だめなあり方だったからつぶれたのだと見なしづらい。国だと、そうかんたんにはつぶれないところがあるから、たとえいまつぶれていなかったとしても、(つぶれてもおかしくはないのにまだつぶれていないことの)謎が意識化されづらい。

 国には謎がないかのようにされてしまうのがあるから、そこに目を向けてみたい。国の財政のあり方がよいか悪いかとはちょっとちがって、日本の国の財政には謎があるけど、それがそこまでしっかりと意識化されていない。もっと謎に目を向けるようにして、そこを意識化したほうがよいだろう。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『貧困と格差 ピケティとマルクスの対話』奥山忠信 『日本国はいくら借金できるのか? 国債破綻ドミノ』川北隆雄 『思考のレッスン』丸谷才一

消費税と、悩みのいろいろ―統治をよくして行くことがいる

 消費税を下げたりなくしたりすれば、みんなが幸せになれるのだろうか。

 いまの日本は、人々の生が多様化している。そこから、悩みがおきていて、いろいろな悩み方で悩んでいる。

 いろいろな悩みを人々がそれぞれに抱えているのがあるから、それらをいっきょに片づけることはできづらい。いっきょに何とかすることはできづらい。

 消費税の有り無しや、その税率が高いか低いかによらず、人々の生が画一化してしまっているのを改めて行けば、人々の悩みは少しは減りそうだ。多様性(diversity)によるようにして行くことで、幸せになりやすくなる。

 近代の時代においては、どうしても悩みがおきてしまうのがあって、それを根本からは何とかしづらい。何が幸せをもたらすのかがよくわからない。幸せになるのに、どういうふうにしたら良いのかが定かではないのがある。

 たとえ幸せなのだとしても、なんでそうなのかの理由がよくわからないし、不幸であるさいにも、なんで不幸なのかの理由がよくわからない。うまく説明づけることができなくなっている。ぐう然性が大きくなっている。

 すごいお金持ちの、大富豪であっても、不幸な人は少なくない。むしろ、お金もちのほうが不幸なことが多いとされるのがある。お金持ちで、不幸であるままで死んでしまう人も少なからずいる。

 すごい少ないお金しかもっていなくても、それだからかえって良いこともある。一〇〇万円を持っていて、一〇〇円の即席めんを買って食べても、たいしてありがたみはない。一〇〇〇円しか持っていなくて、それで一〇〇円の即席めんを買って食べたら、すごいきちょうなふうになり、ありがたみがすごくある。一〇〇〇円のうちの一〇〇円だったら、その一〇〇円はすごい値うちをもつ。

 なにが幸せをもたらすのかは、いろいろな説(理論)があるけど、それらを知ったところで、じっさいに幸せになれるとは限らない。

 上位(meta)の次元の語であるのが幸せであり、ばく然としたものだ。上位の次元の語とは、何々として見よ、といったものであり、なにかの作品の題名などがそれに当たる。幸せが上位の次元の語だとされるのは、『「自分」と「他人」をどうみるか』滝浦静雄による。

 こういうあり方が幸せであると言えるのであるよりも、なにか行動をしているさいちゅうが幸せなのだとされるのがある。静態のものではなくて、動態のものである。何か自分が好きなこと(行動)をやっていて、それに打ちこんでいるさいちゅうが、幸せなのである。作家の原田宗典氏はそう言っていた。

 消費税を払うのはいやなことだけど、それは利他のむずかしさを示している。利他のむずかしさは、集団の統治(governance)のむずかしさでもある。

 もしもみんなが利他であるとしたら、消費税を払うことをいとわないだろう。よろこんで消費税を払う。自分がもっているお金を、すすんで国にさし出す。

 みんなが利己によっているのかといえば、そうとは言い切れず、利他の日本人も少なからずいるだろう。消費税をはらうのは、しかたがないことだとして、受け入れている人もそれなりにいるだろう。そういった人たちは、その点においては、利他によっていることになる。消費税に関して見てみると、それを払うのをかならずしもいやがらないような利他の人もそれなりにはいそうだ。

 消費税を払うのをいやがる人は、利己であって、まちがっているのだとは、必ずしも言えそうにない。それはそれで一理あるのはたしかだ。消費税を払うのをいやがるのにも一理あって、それがいやなのは、日本の国の統治がおかしくなっているのがあるからだろう。

 統治がだめになっていておかしくなっているのが日本にはあって、政治への不信が深刻化している。そこを改めることがないと、消費税をはらうことを受け入れてもらいづらい。利他になって、消費税を払ってもらいづらい。

 すこしでもみんなが生きて行きやすくするためには、日本の国の統治がだめなのをよくしていって、多様性によるようにして行く。そうすれば、利他になりやすくなるのが見こめるから、消費税を払わなければならない苦痛がすこしは減るかもしれない。利他の利己主義(ことわざでいう、情けは人のためならずのようなもの)になりやすくなる。

 参照文献 『悩む力』姜尚中(かんさんじゅん) 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘 『幸福とは何か 思考実験で学ぶ倫理学入門』森村進 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『こうして組織は腐敗する 日本一やさしいガバナンス入門書』中島隆信 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『タイトルの魔力 作品・人名・商品のなまえ学』佐々木健一 『福祉+α 六 幸福』橘木俊詔(たちばなきとしあき)編著 橘木俊詔、宮本太郎監修