政治家は、(運動の競技で)日本のことを応援しないとならないのか―日本ではない国(他国)を応援してはいけないのか

 政治家であれば、日本の代表を応援するべきだ。国際的な運動の競技の大会では、そうするべきだと言われていた。

 日本の国の政治家なのであれば、日本の代表の選手やその集団を応援するべきなのだろうか。ほかの国の選手や集団を応援してはいけないのだろうか。

 たしかに、日本の国の政治家なのであれば、日本の国を代表する選手や集団を応援するべきだとするのは、言わんとしていることはわからないではない。まったく理解できないといったほどのことではない。

 政治家とはいったいどういうものなのかといえば、国民そのもの(presentation)に当たるものではない。国民そのものとはずれているものであり、国民を代理(representation)するのにすぎないのが政治家だ。

 どこの国を応援するべきなのかは、価値にまつわることであり、価値については自由であったほうがよい。一つの価値だけが正しいのだとしてしまうと、上から正しさを押しつけることになってしまう。

 国の中には、いろいろな考えをもつ人たちがいるのだから、その中には、日本を応援する人もいれば、そうではない人もいる。かくあるべきの当為(sollen)は置いておいて、かくあるの実在(sein)のところを見てみると、日本のことを応援しない日本人や日本の国民もまたいるものだろう。

 たとえ日本人または日本の国民だからといって、日本のことを応援するとはかぎらない。その人が日本人または日本の国民だからといっても、日本のことを応援することを含意しない。日本人または日本の国民であれば、日本のことを応援するとはいえず、ちがう国を応援することもしばしばある。

 原因と結果の因果によって見てみると、原因に当たるものとしては、日本人または日本の国民があるけど、そこから、日本のことを応援するとの結果を必ず導けるかといえば、それはできそうにない。結果が一つだけではなくて、いくつもの結果をみちびき出せる。

 たとえ日本とほかの国が、運動の競技の大会で戦い合っているのだとしても、日本よりもほかの国(日本の対戦の相手の国)のほうがより魅力が高いことがある。魅力がより高い方にひきつけられることがある。日本に魅力がないのだとしたら、無理をしてまで応援する必要はない。お義理やお情けで日本のことを応援してもしかたがない。

 物語論で見てみると、もしも大きな物語がなりたつのであれば、日本人または日本の国民である原因から、まちがいなく日本のことを応援する結果をみちびけるだろう。そうした大きな物語の、原因と結果の線(linear)の結びつきがくずれていて、小さな物語しか成り立ちづらくなっているのがいまのありようだ。

 たとえむりやりに、日本のことを応援せよと、政治家に強いたのだとしても、その政治家の本心が別のところにあるのであれば、心ここにあらずみたいになってしまいかねない。お義理やお情けで、日本のことを応援させても、あまり良いことにはなりづらい。

 義理には、冷たい義理と温かい義理があって、冷たい義理は人情をともなわない(つまりお義理)。温かい義理は人情をともなう。良いところばかりで、悪いところが少しもないのが日本の国であるのならともかく、きびしく見れば悪いところだらけなのが日本の国であり、色々に批判をしないとならないところをもつ。

 手ばなしでそんなに温かい義理をもてるような国ではないのが日本だから、どこの国を応援するかなどの価値にまつわることがらについては、政治家をふくめて、(こうせよと上から強いるのではなくて)できるかぎり自由であったほうがよい。そのように見なしてみたい。

 自由であったほうが、日本ではないちがう国を応援することもできる。ちがう国を応援するのだとしても、それはあくまでもその政治家の自己決定権または愚行権に当たる。ちがう国を応援できたほうが、むしろ日本の国にとらわれていないし、しばられていないのだから、日本を応援するよりも、よりよいことだともできる。

 日本を応援せず、ちがう国を応援できたほうが、むしろ政治家としてふところが深い見こみがある。ほかの国なんかどうでもよくて、とにかく日本さえ勝つことができればそれでよいのだとするのは、政治においては器が小さい。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『義理 一語の辞典』源了圓(みなもとりょうえん)