報道の自律性(autonomy)を問う:万博への批判についての論争

 テレビ番組で出演者が万博を批判することを言う。

 番組の中における万博への批判をどのようにとらえられるだろうか。

 批判を言った出演者は、万博への出入りを禁じる。万博から排除する。万博の関係者の政治家はそう言った。

 二〇二五年に関西で行なわれるのが日本国際博覧会だ。

 なんでテレビ番組や新聞では万博への批判があまりなされないのかといえば、報道の媒体は、国の思想の傾向(ideology)の装置だからだ。

 二〇二一年に開かれた東京五輪でも、それを良しとする報道が多かった。五輪を批判する報道はあまりなされなかったのである。五輪に協調してしまう。報道の媒体が、国の思想の傾向の装置であることから来ている。

 国(や地域)のもよおしに協調するのがよいとはかぎらない。悪いもよおしであることも少なくないから、協調してしまうとかえってまずい。非協調のほうがかえって良いことがある。いっけんすると非協調なのはよくないようだけど、そのほうがかえって良いことがあるのである。良くないことに協調したってしかたがない。

 人々をもよおしへと動員(mobilization)して行く。政治ではそれがなされる。動員されることによって、良くないもよおしに協調してしまう。そのばあいは動員されるのにあらがって非協調なほうがよい。動員されて協調してしまうとよくないことが中にはある。

 万博をよしとするのが、万博の関係者だ。万博の関係者は、思想の傾向をもつ。中立なのではなくてかたよっているのである。万博を批判するテレビ番組の出演者もまた思想の傾向をもっているのはたしかだ。

 中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義(liberalism)だ。万博の関係者の言いぶんだけによるのだと、一つの立ち場だけによっているからかたよっている。反対の立ち場の視点をくみ入れないとならない。いろいろなちがう立ち場がよしとされることがいる。色々な立ち場があってよい。視点を多様化して行く。

 中立なのではなくてかたよっているのが万博をよしとする関係者である。関係者がもつ思想の傾向へ、批判を行なう。テレビ番組において出演者が万博を批判するのは、思想の傾向への批判だ。思想の傾向への批判は、排除されてしまう。包摂されづらい。ぜい弱性(vulnerability)をもつ。

 現実とはずれてしまっているのが、万博をよしとする思想の傾向だ。現実とはずれてしまっているから、批判を行なうことがいるけど、その批判は排除されやすい。テレビ番組や新聞なんかで万博への批判の報道はあまりなされない。

 何がまずいのかといえば、他律性(heteronomy)による報道だ。何らかの強制にしたがって行動するのが他律性である。万博の報道は他律性になってしまっている。万博をよしとすることを強制させられている。そこにまずさがある。

 自律性(autonomy)による報道が理想である。自分の意思によってのぞましい行動をなすのが自律性である。万博を批判したいのであれば、自由に批判の報道を行なう。万博をよしとするのにせよ、批判をするのにせよ、いずれにしても思想の傾向によっているのはまぬがれないけど、そのうえで、自律性によって報じるのがのぞましい。

 五輪でもそうだったけど、万博においても、日本の報道は他律性によりすぎだ。五輪や万博をよしとする報道が多いのである。報道がもっと自律性によれるようにして行くことがいる。そうでないと、万博においては、それがもつ思想の傾向を批判することができづらい。現実と大きくずれた思想の傾向がまかり通ってしまう。

 なにが大事なのかといえば、万博を開くことであるよりも、憲法を重んじることだ。いまの日本の国の憲法では自律性がよしとされているのである。万博のことはさしあたって置いておくとして、憲法を重んじるようにすれば、万博を批判する報道をしやすい。自律性による報道ができるようになる。

 日本の報道のあり方は他律性によりすぎていて自律性がとぼしいのがあり、そこを批判することがなりたつ。国の思想の傾向の装置なのが報道だから、他律性によってしまうのはあるけど、その中で自律性をできるだけ持つようにして行く。

 万博のことはとりあえず置いておくとすると、憲法をしっかりと重んじるようにしていって、それをないがしろにしないようにすることがいる。かんじんなのは万博よりも憲法だと言えるだろう。憲法をまず重んじるようにすることがいり、それがあってそののちに来るのが万博だ。万博を優先させてしまうのはまずい。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『政治家を疑え』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『情報操作のトリック その歴史と方法』川上和久

万博と五輪の、費用に対する効果のじっさいのところ

 もよおしの万博の、費用に対する効果はどれくらいあるのだろうか。

 二〇二五年に関西でもよおされる日本国際博覧会では、なん兆円にものぼるばく大な経済の効果がおきるのだとされている。明らかな正の経済の効果があるのは確かだという。

 そもそも、あらゆるものの費用に対する効果はあいまいだ。はっきりとさせづらいのが費用に対する効果なのである。

 もよおしの五輪(二〇二一年の東京五輪)をもち出してみると、かけた費用にたいしてどれくらいの効果があったのかははっきりとしない。すべての国民にどれくらいの恩恵があったのかは定かではないのがある。

 費用は出であり、効果は入りである。出るものと入るものがあるけど、それらはそこまできっちりとしているものではない。

 すごい少ない出だとされていたのが五輪だ。出が少ないのが五輪だとされていたけど、見通しの甘さがあったのである。とちゅうで出が増えていった。はじめに言っていたのよりも出が多くなったのである。

 少なめにしがちなのが出であり、多めにしがちなのが入りである。見通しが甘くなるのがあり、五輪ではそれがおきた。じっさいにふたを開けてみれば、よけいに出がかかってしまう。出が増えてしまう。

 あらかじめこれくらいの入りがあるだろうとしていたのが、それよりも少ない入りになってしまう。何か思わぬような負のできごとがおきたら、入りが思ったよりも少なくなってしまうことがある。卵がかえる前にひよこの数を数えるなと言われている(Don't count your chickens before they are hatched.)。

 ごまかしをしないで、正直になる。誠実になる。それで万博を見てみると、費用にたいする効果がよいとか悪いとかといったことであるよりも、それをはっきりさせづらい。あいまいなのである。よくわからないものについては、よくわからないのだとするべきであり、あたかもそれがはっきりと分かるかのようにするべきではないだろう。

 すごい費用対効果が高いのだとされているのが万博だけど、そもそもの話として費用対効果ははっきりとさせられないことが多いものだから、あやしさがある。あいまいさがあって明らかにしづらいものを、あたかも明らかにすることができるかのように言っている。分からないことを、あたかも分かるかのように言う。そうだとするとそこには不誠実さがある。

 もうけの話があって、自分が一万円ほど払えば、あとになって一〇万円を得られる。現金で一万円ほど払うことで、あとで現金で一〇万円が得られる。たしかに触知ができる(tangible な)形で、現金を払って、あとで現金を手にできるのだったら確からしさが高い。

 不たしかさがあるのが万博だろう。たしかなのは、税金で費用を払わされる点だ。じっさいに会場に行く人は、入場料などを払う。そこはたしかだけど、見かえりとしてどれくらいの利益が得られるのかは不たしかである。見かえりのところは触知ができない(tangible ではない)。

 ほとんどのものごとは費用対効果がはっきりとしない。それをあたかもはっきりとさせられるかのようにしているのが万博であり、すごい費用対効果が高いかのように関係者は言っている。そこにうさんくささがある。

 費用の痛みは確かにあるのだとしても、効果のところは触知ができない。(絵にかいたもちのように)触知ができない効果でしかなのである。確かに手に取れるような効果があるとはいえず、そこがあやふやだ。わからなくて不明なところは、(分かるかのようにするのではなくて)わからないのだとするのでないと誠実ではない。まるですべてを分かるかのようにするのではなくて、分かるところと分からないところをふ分けしたほうが誠実だ。

 参照文献 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや)

悪い大人たちを問題化する:差別や暴力の問題

 多くの子どもたちや女性たちが、パレスチナでは殺されている。

 イスラエルによってパレスチナの子どもたちや女性たちが殺されているが、その中で子どもに目を向けてみるとどういったことが見えてくるだろうか。

 大人と子どもを比べてみる。子どもよりも大人の悪さが浮かび上がってくるのがある。

 パレスチナの子どもたちは、成長して大人になったら暴力主義者(terrorist)になるかもしれない。暴力主義者になるのをあらかじめ防ぐのだとして、イスラエルパレスチナの子どもたちを殺す。子どもを殺すのを正当化している。

 どういうのが悪い人なのだろうか。悪い人とは、力をもった子どもだ。子どものような大人である。

 じっさいの子どもは力をもたない。非力である。まだ大人のような理性をもたない。善や悪の判断が十分にできないため、善悪の彼岸にある。大人におけるような罪を当てはめられないのである。

 見かけは大人だけど、中身は子どもで、力をもっているのが悪人だ。形式としては大人だけど、実質は子どもである。思想家のトマス・ホッブズ氏はそのように言う。

 たとえイスラエルの子どもであろうとも、パレスチナの子どもであろうとも、やがて成長して大人になったさいに悪人になることがある。悪い大人になることがあり、力をもった子どもになることがある。どこの国または地域の子どもでも、しょうらい悪人になることがある点では共通点をもつ。

 日本の国を見てみると、差別主義者の政治家がいる。与党である自由民主党の政治家で差別主義者がいるけど、そういう人であったとしても子どものころからそうだったのではない。小さい子どものころから差別主義者であることは基本としてない。

 思想の傾向(ideology)にまだ深くそまっていないのが子どもだ。子どもが成長していって大人になるさいに、思想の傾向にそまって行く。それで差別主義者になってしまう。

 どっぷりと思想の傾向にそまってしまっているのが、日本の差別主義者の政治家だ。悪い大人である。そういう人でも、自分がもっている思想の傾向をさしあたってわきに置いておくことができれば、子どものころにかえることができるかもしれない。まだ差別主義者ではなかったかつての子どものころに近づける見こみがある。

 大人が、子どもを見ならう。それがあっても良いものだろう。大人よりも子どものほうが優れているところがある。大人と子どもを比べてみるとそう見なすことがなりたつ。

 国は思想の傾向をもつ。国の思想の傾向の装置があり、それにからめ取られてしまう。主体がからめ取られてしまうのがあり、それによって国の思想の傾向に染まることになる。

 主体は行動者であり、客体である相手を差別してしまう。行動者である主体が差別の行動をとってしまうのである。主体が客体を表象する。心の中の像(image)を外に表現したものなのが表象だ。主体が上に立ち、下の客体を表象して行く。おとったものとして主体によって表象されてしまうのが客体だ。

 まだ国の思想の傾向の装置にそこまでからめ取られていないのが子どものころだ。未完成なありようである。実存によっている。実存が本質に先だつ。

 大人になってしまうと、本質が存在に先だってしまう。本質主義だ。本質のところには国を当てはめることがなりたつ。イスラエルであれば、イスラエルが存在に先だってしまうのである。国家主義(nationalism)だ。

 まだ子どものころであれば、実存主義のところがあって、実存が本質に先だっている。国や民族のちがいによって差別をしづらい。大人ほどには差別をしづらいのがあり、境界の線を超えることがなりたつ。

 大人は悪くて子どもは良いのだとするのはたんじゅんな分類づけになってしまいそうだ。もうちょっとふ分けしてみると、良い大人と悪い大人がいて、よい子どもと悪い子どもがある。それらのうちで、悪い大人は危ない。

 日本の政治家の中には差別主義者がいて、そうした人は悪い大人だ。イスラエルの政治家の中にも悪い大人はいるものだろう。良い大人であればよいけど、悪い大人であるのなら、子どもから学ぶことがあってよい。悪い大人と比べたら、子どものほうがましだろう。

 イスラエルパレスチナに暴力をふるっているのは、悪い大人の行ないだ。子どもを殺すことはあってはならない。悪い大人が悪さをしているのを改めることがまず重要なことだ。子どもについては、できるだけ将来において悪い大人にならないようにして行く。良い大人に成長して行けるようにして、またちゃんと子どもから大人になれるようにして行く。

 どういうのが悪い大人なのかといえば、そのじっさいの事例は日本にもイスラエルにもいる。差別主義者や暴力主義者の政治家がそうだ。子どもによくない影響を与えるような悪い大人は日本にもイスラエルにもいるから、そうした悪い大人の悪さを問題化して行く。悪い大人の悪さを改めることが先決である。

 たとえ悪い大人であったとしても、子どものころからそうだったのではなくて、まだ子どものうちは差別主義者ではなかった見こみが低くない。まだひどく小さい赤ちゃんのころから差別主義者の人はいないから、すごい悪い大人と比べたら赤ちゃんのほうがましだろう。

 大人のありようを自明なものとするのではなくて、それを異化して行く。本質化や自然化するのではなくて、脱自然化をこころみる。脱自然化するうえで、子どもをもち出す。大人のあり方を批判するために子どもをもち出してみて、悪い大人の悪さを少しでも浮きぼりにしていって、それを改められたらさいわいだ。イスラエルパレスチナでは、イスラエルパレスチナに暴力をふるうのを止めて行きたい。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『法哲学入門』長尾龍一 『境界線の政治学杉田敦(あつし) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『砂漠の思想』安部公房(こうぼう) 『「他者」の起源(the origin of others) ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』トニ・モリスン 荒このみ訳 『アイデンティティ(identity) / 他者性(otherness) 思考のフロンティア』細見和之(ほそみかずゆき) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや)

法の重要性を考える:うら金と政治の問題

 再び起きてしまうのを防ぐ。そのために、法の決まりを作って行く。政治のうら金のことでは、それがいるのだとされているのがある。

 再発をふせぐために、法の決まりを作ることが、うら金のことにおいてもっともいることなのだろうか。制度を作りさえすれば、再びうら金を作られることが起きなくなるのだろうか。

 うら金を作っていたのが与党である自由民主党の政治家たちだ。野党は自民党のうら金の政治家たちを批判するのではなくて、法の決まりや制度を作って行くことをしなければならない。自民党を批判ばかりしていないで、野党はかんじんなことをやるべきだ。そう言われているのがある。

 何が欠けているのかを見てみたい。うら金のことにおいて、それを作らせないようにする法の決まりや制度が欠けているのだとは必ずしもいえそうにない。

 法の決まりや制度が欠けているから、それを新しく作って行く。それで再発を防止して行く。これから新しく法の決まりや制度を作って行くことがいるのであるよりも、その前のところのものが欠けてしまっているのが日本の政治だろう。

 いちおうあると言えばあるものなのが、法の決まりや制度だ。それらがまったくないのではなくて、いちおうすでにあると言えばある。それに比べて、何がいちじるしく欠けているのかと言えば、もっと前のものだ。基礎や土台みたいなものが日本の政治では欠けている。

 基礎や土台に当たるところのものとして、法治がある。いまの日本の政治は、法治ではなくて人治になってしまっている。法の支配(rule of law)ではなくて。人の支配だ。

 周辺と核心の二つにふ分けしてみる。二つにふ分けしてみたさいに、うら金のことでは、法の決まりや制度の不備が核心に当たるのだとはできそうにない。核心に当たるのは何かといえば、法の軽視だ。法を重んじていない。

 家を建てるさいに、なんじゃくな地盤のところに建ててもきちんとした家は建たない。しっかりとした家を建てるためには、きちんと安定した地盤のところに、しっかりとした基礎をつくる。そのうえで家を建てて行く。

 政治のうら金のことでは、いくら再発を防ぐための法の決まりや制度を作るのだとしても、すごいなんじゃくな地盤のところに家を建てるようなことになってしまう。

 ひどく法を軽んじていて法治ではなくなっているところに新しく法の決まりや制度を作ったとしても、必ずしも意味があるものになるとはいえそうにない。せっかく新しく建てた家が、すぐに倒れてしまうようなことになる。

 どういうことを改めるべきなのかと言えば、法治ではなくなっているところだ。法治ではなくて人治になっているのを改めて行く。強い者に有利にはたらくような帝国主義(専制主義)になっているのがいまの日本の国の政治だから、専制主義を改めて行く。

 具体のものなのが法の決まりや制度だけど、それよりも前のところである抽象のところを見て行く。具体論ではなくて抽象論によってみると、日本の政治では法が軽んじられている。法を重んじていない。それがあるから、法を重んじるようにすることからはじめて行かなければならない。そこから改めて行くことがいる。

 中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義(liberalism)だ。中立ではなくて、強い者に有利になっているのが日本の国の政治であり、専制主義のあり方だ。うら金が作られていたのは、強い者である自民党に有利にはたらくものである。専制主義のあり方があらわれているのである。

 脱税をしているのが自民党の政治家たちであり、うら金を作っていた。脱税の脱のところがあるけど、それになぞらえれば、政治が脱法になっている。無法や超法になっているのが日本の国の政治であり、法にもとづいていない。いくら再発をふせぐために新しく法の決まりや制度を作るのだとしても、脱法や無法や超法になっているのであれば意味がない。

 いそいで新しい再発の防止のための法の決まりや制度を作るのであるよりも、いまいちど法を重んじるようにすることからはじめて行く。初歩のところからはじめて行く。国の政治においての初歩のところができていないのがいまの日本であり、そこから改めて行くことがいりそうだ。

 具体論であるよりも抽象論で見てみると、抽象のところができていないのがあり、まずは法を重んじるようにするところからはじめて行くことがいるのが日本の政治だろう。

 たとえ自民党であっても、そのほかの政党であっても、どこの政党であったとしてもそもそもこういうことはよくないのだとして行く。どこの政党であったとしても、どの政治家であったとしても、そもそもこの行ないは悪いといったふうにするのでないと、自民党だけが甘く許される、甘えの構造を改めることができづらい。甘えの構造が保たれたままだと、法が軽んじられつづけてしまう。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫現代思想を読む事典』今村仁司編 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『人を動かす質問力』谷原誠 『法哲学入門』長尾龍一構築主義とは何か』上野千鶴子

テレビ番組の適正性:政治家への番組の出演の依頼をめぐる議論

 左派の政党の政治家が、テレビ番組に出ることをこばむ。番組に出てほしいと言われたのをこばんだことへ、批判が投げかけられている。

 たとえどのような番組であったとしても、出てほしいと言われたら、政治家は必ずその番組に出なければならないのだろうか。何が何でも番組への出演の依頼を引き受けなければならないのだろうか。

 たとえ番組に出てほしいとたのまれたのだとしても、それを引き受けるか引き受けないかは、政治家の自己決定にまかされることだろう。番組に出たほうが良いとはかぎらないし、出ないのが悪いともかぎらない。

 テレビ番組に出るかそれとも出ないかは、何々であるの事実(is)だ。何々であるの事実をもってして、何々であるべきの価値(ought)を自動ではみちびけそうにない。自動でそれを導いてしまうと自然主義の誤びゅうにおちいってしまう。事実と価値の二つをふ分けすることがなりたつ。

 むりやりに番組に出させるのだと強制になってしまう。当事者である政治家が自分で番組に出るかそれとも出ないのかを決めるのでないと、外から強制することになり、自由ではなくなる。当事者の自己決定によるのでないと、父権主義(paternalism)のあり方になる。個人の自己決定をよしとしているのがいまの日本の憲法だ。

 中立のものなのがテレビ番組なのだとはいえそうにない。きほんとしてテレビ番組は国の思想の傾向(ideology)の装置だ。右にかたよった思想の傾向をもつテレビ番組が多い。日本の国をよしとしがちだ。国家主義(nationalism)である。左の思想の傾向のテレビ番組はちょっとしかない。

 どんどん右傾化が進んでいっているのが日本の国の政治だ。かつてよりも反自由の政治になっていっている。報道もまた右にかたよっていっている。報道が自由主義(liberalism)の公器ではなくなっているのである。

 テレビ番組に政治家が出るのは、自分のことを宣伝するためであることが少なくない。テレビ番組に政治家が出るのは、それそのものが自分を宣伝する効果をもつ。テレビ番組の画面に政治家が映ることによって、大きな宣伝の効果がおきるのである。

 損をするか得をするかでは、損をするようなテレビ番組への出かたを避ける。得をするようなテレビ番組への出かたをして行く。政治家はそうした行動をとることが多い。

 自分が損をしてまでも、テレビ番組に政治家が出ることはほとんどないことだろう。自分が損をするくらいだったら、テレビ番組に出ないほうがましだし、何かほかの得をえられる行動をしたほうが合理性が高い。

 そんなにきれいで純粋な動機づけ(motivation)で、政治家がテレビ番組に出るとは見なしづらい。多かれ少なかれ不純な(じゅんすいではない)動機づけによって政治家は動く。お金であったり票であったりのために動くのが政治家だ。

 日本のテレビ番組を批評してみると、きちんとした議論が行なわれることがほとんどない。きちんとした議論をするためには、議論の規則や倫理がなければならない。議論の規則や倫理が欠けていると、まともな議論にはならない。

 状況の点をくみ入れてみると、テレビ番組において、きちんとしたまともな議論ができることはほとんどのぞめない。議論の規則や倫理が欠けていることが多いから、テレビ番組に政治家が出ることがよくて、出ないのは悪いことだとはできそうにない。

 状況が悪いことが多いから、政治家がテレビ番組に出ることによい含意をこめることはできないし、逆にたとえ出ないからといって悪い含意をこめることもまた必ずしも成り立たないのがある。

 政治家の個人の要因であるよりも、それをとり巻く状況の要因をないがしろにできづらい。ひと口にテレビ番組といっても、それの範ちゅう(集合)と価値があるから、すべてがよい番組なのだとは言いがたいものである。悪い価値をもつ番組は少なくない。視聴率は高くても悪い価値をもつ番組はけっこう多いのがある。よい価値の番組は視聴率が低くなってしまう。

 政治家の価値の低さと、テレビ番組の価値の低さがあって、どちらも改善されるべきだ。よい価値をもつ政治家は少ないし(そう多くはない)、よい価値をもつテレビ番組もまた少ない。

 悪い価値をもつ政治家が、悪い価値をもつテレビ番組に出たってしかたがない。たんてきに言えば、(ナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーのような)極右の政治家が右よりの番組に出たとしてそれにいったい何の意味があるだろうか。客観に益になるのであるよりも害になるところのほうが多そうだ。

 よし悪しを抜きにして、たんに政治家がテレビ番組に出ればよいものではない。政治家やテレビ番組のよし悪しをきちんとぎんみして行く。政治家にせよテレビ番組にせよ、悪貨が良貨を駆逐(くちく)してしまうのがあるから、悪いものが力をもちがちだ。

 とことんまでやることがいるのが政治だけど、テレビ番組ではそれをほとんどのぞめない。深くまでものごとを掘り下げるのに向いていないのがテレビ番組だ。時間の制約がかかる。費用や労力の制約もある。視聴率をできるだけかせがないとならないから、効率や速度が重んじられる。

 効率や速度が重んじられがちであり、適正さが欠けていることが多いのがテレビ番組だ。商売でやっているものだからそうなる。適正さが欠けていることが多いから、政治家がテレビ番組に出たからといって良いとはかぎらないし、出ないからといって悪いとも限らないのがある。

 適正にやろうとするとどうしても費用や労力が多くかかってしまうから、わりに合わなくなる。商売として損をしてしまう。手ぬきをするのでないともうからないのである。

 効率や速度を重んじすぎているテレビのあり方を批判することがなりたつ。たとえ政治家が出ているからといって、そこで政治がなされているとは限らないのがテレビ番組だ。とことんまでやるのでないと政治にはならないけど、テレビ番組はとことんまでものごとをやるのに向いていない。

 参照文献 『政治家を疑え』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『NHK 問題』武田徹 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術』川崎昌平(しょうへい) 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一 『右傾化する日本政治』中野晃一(こういち) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『本当にわかる論理学』三浦俊彦ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや)

万博の経済の効果と汚れの問題

 みんなにとって益になるものなのがもよおしの万博なのだろうか。

 費用はかかってしまう。税金はかかるものの、それを上回るほどの経済の効果を生む。そう言われているのが、二〇二五年に開かれる日本国際博覧会だ。関西で開かれることになっている。

 あたかもまんべんなくみんなに益になるかのように言われているのが万博だけど、そこでとり落とされてしまっているのが汚れの点だろう。きれいか汚いかの点である。それを組み入れて見てみたい。

 汚さの点を抜きにしてみると、負と正で、正のほうがうんと上回る。負である税金よりも、利益である正のほうがうんと生じるのだとされることになる。

 とり落とされてしまっている汚さの点をくみ入れてみると、どんどん汚れがたまっていってしまうのが、万博を開くことだ。なんで汚れがますますたまることになるのかといえば、日本の中心によってもよおされるものだからである。

 日本の中心にあるのが、与党である自由民主党や、第二自由民主党である日本維新の会だ。維新の会は自民党の補完の勢力である。中心を強めてしまうと、汚れがどんどんたまりつづけていってしまう。

 いま汚れに少し目が向けられているのがある。政治のうら金のことだ。うら金のことは汚れであり、それが表ざたになっているのである。うら金への批判がおきているのがあり、これは汚れをきれいにする働きだ。

 さすがに日本では、政治において汚れがたまりすぎている。これまでに中心にいるものによって汚れがそうとうにためられてきている。汚れがたまっている量がすごいことになっていて、隠し切れなくなっているのがあり、表に出てきているのがうら金のことだろう。

 みんなが良しとしているのではなくて、それなりの批判がおきているのが万博だ。万博への反対の声は小さくない。万博に反対するのや、万博を批判するのは、汚れをきれいにする働きだ。どちらかといえばそうだ。

 中心をますます強めることになるのが万博を開くことだ。第二自民党である維新の会を強めることになる(なってしまう)。それだと汚れをますますためていってしまう。

 費用対効果では、税金の費用がかかるのがあるけど、それだけではなくて、汚れがたまりつづけていってしまうのも見のがせない。汚れがきれいになるのではなくて、ますますたまっていってしまうのはかなりの費用だ。

 どれくらいの費用がかかって、どれくらいの利益があるのかの試算があるけど、その試算では、汚れの点がくみ入れられていないのである。汚れの点をくみ入れて試算してみると、すごい大きな費用がかかってしまう。効果はあんまりない。効果が少しあったとしても、それが殺されてしまう。

 もよおしをやるのは積極で、それをやらないようにするのは消極にひびく。積極のほうがよくて、消極は悪いかのような気がするけど、そうとはいえそうにない。消極のものがもつ積極性に目を向けてみたい。

 消極がもつ積極性としては、万博をやらないようにして中止したほうが、汚れをきれいにできる。汚れがたまりつづけていってしまうのを避けられる。中心を強めることで汚れがたまっていってしまうのを止めるようにしてみたい。

 汚れをきれいにする働きがあるのが、万博をやらないようにして中止することの良さだろう。万博はいわばにせのもよおしだけど、万博をやらないようにして中止することのほうがかえってもよおしの効果をもつ。非日常のものなのがお祭りなどのもよおしであり、日ごろにためられた汚れを少しでもきれいにできるのでないと意味がない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹

歴史の認識と暴力:イスラエルとパレスチナの紛争と歴史の視点

 歴史の点から、イスラエルがいまパレスチナになしていることを見てみるとどういった見なし方ができるだろうか。

 歴史の字がある。歴は起きたことや経験したことだ。史は書き記すことである。

 認識と解釈の二つにふ分けすることがなりたつ。歴史においてはその二つにふ分けすることができて、認識は五 W 一 H である。who、when、where、what、why、how の六つだ。認識の五 W 一 H は事実に当たるものだから、見なし方の食いちがいがおきづらい。

 歴史の認識である五 W 一 H で見てみると、パレスチナイスラム主義の勢力がイスラエルに暴力をふるうことがなされた。暴力をふるわれたのはイスラエルである。

 イスラエルに暴力をふるった主体をやっつける。暴力の主体をやっつけるために、イスラエルはいまにおいてパレスチナに暴力をふるっている。イスラエルが暴力をふるうことによって、パレスチナにいる子どもや女性が多く殺されている。パレスチナの子どもたちや女性たちが暴力の被害にあう。

 あったことを無かったことにはできづらい。解釈によるのであっても、すでに起きたことを無かったことにはできづらいのがある。あったことはあったことであり、それを認めざるをえない。歴史の認識である五 W 一 H のところは認めざるをえないのである。

 すでにおきたものである五 W 一 H のところは否定しがたいのがあるから、歴史の認識では食いちがいはおきづらいが、解釈では食いちがう。歴史の解釈においては食いちがいがおきるのがあり、とらえ方に相違(そうい)点がおきる。

 論理によって見てみると、世界中の多くの人をすべてだますことはできづらい。関係者を含めて世界中の多くの人をだますのは、ぼう大な労力がかかることだから、合理性が低い。歴史の認識である五 W 一 H のところは共通点になりやすいところであり、そこまでごう引に否定してしまうのは非論理である。

 絶対の真理とまではいえないのはあるけど、歴史において共通点になりやすいところがあって、そこは認めたほうが論理によることになる。真理がどうなのかについては、お互いに対話をし合うことが欠かせない。それにくわえて、うそを証明することができる可能性があるのでないとならないのもある。反証の可能性を持つことがいる。

 解釈においては、イスラエルは正しいことをなした。イスラエルは自国の行ないをそう解釈するだろう。自国の行ないを正当化や合理化する。どういうふうに解釈するのが正しいのかは、見なし方が分かれるのがあり、食いちがいがおきてしまう。

 国は自国の行ないを正当化や合理化するのがあり、自国に都合がよい解釈をして行く。歴史の解釈にかたよりがおきることになる。それとは別に、少なくとも歴史の認識である五 W 一 H は相違点がおきづらく共通点を持ちやすいところだから、そこは認めなければならないだろう。

 イスラエルパレスチナに暴力をふるい、パレスチナ人の子どもたちや女性たちに多くの被害がおきた。パレスチナ人の子どもたちや女性たちに多くの死者が出た。それをどのように解釈するのにせよ、起きたことそのものは否定しがたい。

 むりやりに解釈によって起きたことを否定してしまわないかぎり、起きたことは起きたこととしてある。暴力をふるわれた死者の意味あいは小さいものではなくて、その意味あいは大きい。暴力をふるわれてしまった死者にじゅうぶんに光を当てて行くことがだいじだろう。日ごろは生者を主にしているけど、それを転じて(生者を従にして)死者を主にするくらいのことがいる。

 生者では、暴力をふるわれた人に光を当てて行く。イスラエルによって暴力をふるわれた人たちがいて、そうした人たち(被害者)は負のこん跡をもつ。両義性(ambivalence)を持つことになる。排除のこん跡をもつ。両価性や両面価値性を持つ人たちに光を当てて行き、そこから十分に意味あいを見いだすことがいる。

 参照文献 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉歴史学ってなんだ?』小田中(おだなか)直樹 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『歴史家が見る現代世界』入江昭 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司

暴力とは何か:イスラエルのパレスチナに対する行動の考察

 パレスチナでは、暴力がふるわれている。イスラエルの国によってだ。

 イスラエルがやっている暴力にたいして世界の色々な所で批判の声があげられている。具体としてのイスラエルの暴力をどういうふうにとらえられるだろうか。

 具体論としては、イスラエルパレスチナにたいして暴力をふるう。具体からやや離れて抽象論で見てみたい。

 抽象論によって見てみると、ある場所において、ある地域または人々にたいして暴力がふるわれている。そのさいの暴力とはいったいどういったものなのだろうか。

 イスラエルによって暴力をふるわれているのがパレスチナの地域またはパレスチナ人の人たちだ。パレスチナの地域またはパレスチナ人の人たちはなんで暴力をふるわれているのかといえば、ぜい弱性(vulnerability)を持っているからである。悪玉化(scapegoat)されている。贖罪(しょくざい)の山羊(やぎ)だ。ぜい弱性をもつものを排除するのが暴力である。

 世界の中でたった一つのところでだけ、暴力がふるわれているのではない。イスラエルパレスチナに暴力をふるっているのがあるけど、そこの場所だけで暴力がふるわれているのではなくて、ほかの色々なところでも暴力がふるわれている。世界の中で色々なところで暴力がおきている。

 パレスチナにはぜい弱性を持った人たちがたくさんいる。とりわけパレスチナ人の中で子どもや女性はぜい弱性を大きくもつ。ぜい弱性を大きく持っているのが子どもや女性だから、それらの人たちがたくさん殺されている。パレスチナ人の子どもや女性の死者の数はとても多い。ぜい弱性を持っていない人は暴力をふるわれづらいけど、それを持っている人は暴力をふるわれやすい。被害にあいやすいのである。

 世界のいたるところにぜい弱性を持った人たちがたくさんいる。たとえば学校の中だったら、いじめられっ子がいる。家庭の中だったら、親からぎゃくたいを受けている子どもがいる。いじめられっ子やぎゃくたいを受けている子どもは弱者だ。

 いじめっ子やぎゃくたいを行なっている親は、強者だ。イスラエルパレスチナの関係においてはイスラエルに当たる。

 比ゆとして、イスラエルパレスチナのことを、学校や家庭になぞらえて見てみたい。それらになぞらえてみると、学校において弱者に暴力がふるわれないようにして行く。いまの日本の憲法でいわれている人権を守って行く。憲法でいわれる人権をしっかりと守って行かないと、学校においてはいじめがおきてしまう。憲法の三つの柱のうちの一つなのが基本的人権尊重主義である。

 家庭においてはその中の弱者がいる。子どもや老いた人がいる。家庭の中では、子どもや老いた人は弱者に当たることがあり、暴力がふるわれることがある。人権がしんがいされてしまう。人権が守られるようにして行かないと、家庭の中で弱者に暴力がふるわれることになってしまう。

 具体論としては、イスラエルパレスチナに暴力をふるうことをいっこくも早く止めさせたい。具体からやや離れて抽象論によってみると、イスラエルにかぎらず、世界の中のいたるところにいる、ぜい弱性をもった人たちに暴力がふるわれないようにして行きたい。

 ぜい弱性をもった人たちは世界中にたくさんいて、たとえば学校の中とか家庭の中にいる。そこにおいて憲法でいわれる人権が守られているのでないと、学校の中であったり家庭の中であったりで弱者に暴力がふるわれることになる。

 イスラエルパレスチナにおいていったい何がおきているのかでは、そこで暴力がふるわれることがおきている。暴力がふるわれる点では具体論だけではなくて抽象論で見ることもできて、イスラエルパレスチナに限定化しないとらえ方がなりたつ。世界の色々な所で広くおきているのが暴力の現象だ。

 世界でたくさん起きているものである暴力の現象を少しでも少なくして行く。少しでも止めて行く。そのためには憲法でいわれる人権が軽んじられないようにして、それが守られるようにすることがいる。

 暴力がふるわれてしまいやすいぜい弱性をもった弱者のもつ人権がしっかりと守られるようにして行きたい。とりわけぜい弱性をもった弱者にとって大きな意味あいをもつのが、切り札(trump)としての権利だ。切り札性をもつ権利に当たるのが、憲法でいわれる人権である。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『いじめを考える』なだいなだ 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや)

政治のうら金において核心に当たる元首相:社会の矛盾(dilemma)と憲法の重要性

 政治のうら金において、核となる政治家はいったい誰なのだろうか。

 周辺と核心の二つにふ分けしたさいに、核心に当たる政治家として、森喜朗元首相がいそうだ。

 与党である自由民主党森元首相は核に当たる。どうぶつで言うところの猫だと見なしてみたい。

 ねこの首に鈴をかけに行く。ねずみたちがねこの首に鈴をかけに行けるかどうかが試されている。

 社会の矛盾(dilemma)を片づけて行く。日本ではねずみたちがねこの首に鈴をかけに行こうとしづらい。社会の矛盾がなかなか片づかないのである。

 きびしい批判の声が投げかけられているのが、政治のうら金についてだ。うら金について人々からきびしい批判が投げかけられているのがあるので、ねずみたちがやる気になってきている。ねずみたちがねこの首に鈴をかけに行く動機づけ(incentive)が高まっているのだ。

 人のことをねずみと言う。ねずみと言ってしまっては失礼にひびくかもしれない。そのうえで、民主主義をなすのはどうぶつで言うところの羊だ。強いおおかみに頼ってしまっては民主主義をなすことはできなくなる。よわい羊たちの横のつながりによって民主主義はなりたつ。強いおおかみは独裁者だ。

 うら金の核となる政治家であるねこが力をもつ。ねこやおおかみが力を持ってしまうと、民主主義ではなくなってしまう。森元首相はねこやおおかみなのがあって、これまでにその首に鈴をかけられることがなかった。いまだにその首に鈴がかかっていない。

 ねこやおおかみが、力を持ったままになってしまう。日本でそれが起きてしまうのは、報道がきちんと機能していないからだろう。報道がやじ馬としての機能を十分にもち、ねこやおおかみの政治家に強い関心を寄せて行く。ねこやおおかみの政治家をどんどん批判としてとり上げて行く。ねこの首に鈴をかけて行くようにすることがいる。

 やじ馬としての働きが弱いのが日本の報道にはあるから、ねこやおおかみの政治家に照明が当たりづらい。ねこやおおかみの政治家に光が当たらずに、暗いやみの中に隠れてしまう。ねこやおおかみである森元首相がきちんと批判としてとり上げられてこなかったのがあり、日本の報道の機能の不全があらわれ出ている。

 森元首相だけではなくて、ねこやおおかみに当たるものとしては、安倍晋三元首相や、自民党のうら金の当事者の政治家や、政党では自民党などもそうだ。それらのねこやおおかみが力を持ちつづけてしまう。ねこの首に鈴をかけに行くのがなかなかなされづらいのが日本にはあって、それによってうら金のことがおきてしまった。

 報道がもっているべきやじ馬の機能が弱い。報道において、もっとやじ馬の精神を強くもって、ねこやおおかみに当たる政治家などをびしばしと批判としてとり上げて行かないと、日本の中の社会の矛盾がなかなか片づいて行きづらい。

 何らかの強制に従って行動することなのが他律性(heteronomy)だ。うら金のことでは、森元首相が超越の他者(hetero)に当たり、それによって下の人が動かされる。超越の他者はねこやおおかみであり、誰もそれにさからえない。自分の意思によってのぞましい行動をすることなのが自律性(autonomy)だけど、その自律性がいちじるしく欠けてしまう。

 他律性によっていて、超越の他者に動かされているのがあるから、そこを改めて行きたい。自律性によるようにしないと、ねこの首にねずみたちが鈴をかけに行きづらくなる。

 いまの日本の国の憲法では自律性がよしとされているのがあり、憲法をしっかりと守るようにしないと、超越の他者に動かされることになる。ねこやおおかみに当たる政治家がいつまでも力を持ちつづけてしまう。憲法が守られていなくて、超越の他者が下の人を動かしている図が見えてきているのが、政治のうら金のことにはある。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹法哲学入門』長尾龍一

映画館における多数者と少数者

 少数者が、快く映画館で映画を見られるようにして行く。

 からだに障害を持った人などの少数者を排除して、多数者だけが快く映画館で映画を見られるのでよいのだろうか。それとも、少数者を包摂した映画館のほうがよりのぞましいのだろうか。

 とくにからだに障害を持たないような多数者だけが、映画館で映画を見られればよい。少数者は映画館で映画を見られなくてもよい。多数者を主にするものだ。

 少数者は映画館で映画を見られるだけでよしとするべきである。すこしくらい不便なところがあってもがまんするべきだ。ウェブの X(Twitter)ではそうしたつぶやきが言われている。

 少数者を包摂しないで排除する映画館があるのだとすると、それについての正当性を問いかけてみたい。

 たしかに、映画館を営む民間の会社なんかは、財源のじじょうを抜きにはできなさそうだ。財源がきびしいのであれば、少数者を切り捨ててしまいかねない。多数者が優先になってしまう。財源にゆとりがあれば少数者を包摂しやすいのはあるかもしれない。

 財源の点をくみ入れてみると、少数者を排除する発想が出てきてしまいかねない。少数者に不快を与える映画館が作られてしまう。

 映画館で映画を見るさいに、少数者が不快をおぼえる。たとえ不快をおぼえたのだとしても、それくらいはがまんせよ。または、不快をおぼえるのであればその映画館を利用しないようにするべきだ。そういったことが言われているけど、不快をおぼえるところでいったん立ち止まるようにしたい。

 なんでその映画館を利用することで少数者が不快をおぼえるのだろうか。不快さがあるのだとすれば、それを思考して行く。不快を思考することがあったらよい。少数者を排除するような冷たさのある映画館を、人間化して行く。非人間の映画館を人間化して行く。そういった改善がなされればよい。

 いまの時点で、その映画館のありようが、非標準や不平等や非人間なふうになっているのだとすれば、それらを改めるようにして行く。標準化や平等化や人間化だ。

 いっけんすると、少数者が映画館に文句をつけたりけちを付けたりしているように受けとれる。表面としてそう受けとれてしまうのはあるけど、少数者と映画館があるとして、その二つのうちで変わることがあったらよいのは映画館の方なのである。

 ふつうだったら、多数者は変わらなくてよくて、少数者がそのあり方に合わせるべきだとされてしまう。それだと非標準や不平等や非人間なあり方が改まらないのである。放ったらかしにされてしまう。きもになるのは、ふつうは変わらなくてよいのだとされる多数者の方を変えて行く。標準化や平等化や人間化するさいにはそれがきもになる。

 そういうふうに映画館のありようがなっているのだから、少数者はそれに合わせよ。X のつぶやきでそう言われるのがあるけど、そのさいの映画館のありようはかくあるの事実(is)だ。かくあるの事実から、かくあるべきの価値(ought)を自動ではみちびけそうにない。自動でそれを導いてしまうと自然主義の誤びゅうにおちいってしまう。

 少数者が不快をおぼえることがあるのであれば、それについてどんどん批評して行く。映画館で不快をおぼえるようなことがあったら、がまんしないでどんどん批評していったらよい。映画館にかぎらず色々なことについて、少数者が批評をして行く。そうして行けば、うまくすれば多数者のありようを変えることがなりたつ。

 ふつうはそれをやらなくてもよいのだとされてしまうものである、多数者のありようを変えて行く。あり方の標準化や平等化や人間化をなす。できればあり方が改まったほうがよいのがあるから、多数者のあり方を一方的に少数者に押しつけるのは十分な正当性があるとはいえそうにない。

 そういうふうになっているのだからとするのはものごとの自然化だ。それを脱自然化して行く。人が人工で構築したものなのであれば、うまくすればそれを変えることがなりたつ。まったく不変のものなのではない。

 映画館のありようは人が人工で構築したものなのだから、いっさい変えることができないものだとは見なせそうにない。脱構築(deconstruction)することがあってもよくて、少数者を含めて人にやさしいあり方に一から作り直すことがあってもよいものである。

 自分の意思によってのぞましい行動をして行く。自律性(autonomy)だ。いまの日本の憲法では自律性がよしとされている。何らかの強制にしたがって行動するのは他律性(heteronomy)である。

 できるだけ少数者が自律性によるようにできたほうがのぞましい。少数者が自己決定できるようにして行く。他律性によるのだと、父権主義(paternalism)になってしまう。

 父権主義で、こうせよとかああせよとかとされるのは、自分がもしも少数者だったらいやなものである。当事者を抜きにして第三者や局外者がいばるのはこまる。超越の他者(hetero)によって動かされたくないものである。上から命じられるのはゆかいではない。当事者が自己決定できたほうが良いのがある。

 参照文献 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『本当にわかる論理学』三浦俊彦精神分析 思考のフロンティア』十川幸司(とがわこうじ) 『だれか、ふつうを教えてくれ!』倉本智明 『はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術』川崎昌平(しょうへい) 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹構築主義とは何か』上野千鶴子編 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫