政治のうら金において核心に当たる元首相:社会の矛盾(dilemma)と憲法の重要性

 政治のうら金において、核となる政治家はいったい誰なのだろうか。

 周辺と核心の二つにふ分けしたさいに、核心に当たる政治家として、森喜朗元首相がいそうだ。

 与党である自由民主党森元首相は核に当たる。どうぶつで言うところの猫だと見なしてみたい。

 ねこの首に鈴をかけに行く。ねずみたちがねこの首に鈴をかけに行けるかどうかが試されている。

 社会の矛盾(dilemma)を片づけて行く。日本ではねずみたちがねこの首に鈴をかけに行こうとしづらい。社会の矛盾がなかなか片づかないのである。

 きびしい批判の声が投げかけられているのが、政治のうら金についてだ。うら金について人々からきびしい批判が投げかけられているのがあるので、ねずみたちがやる気になってきている。ねずみたちがねこの首に鈴をかけに行く動機づけ(incentive)が高まっているのだ。

 人のことをねずみと言う。ねずみと言ってしまっては失礼にひびくかもしれない。そのうえで、民主主義をなすのはどうぶつで言うところの羊だ。強いおおかみに頼ってしまっては民主主義をなすことはできなくなる。よわい羊たちの横のつながりによって民主主義はなりたつ。強いおおかみは独裁者だ。

 うら金の核となる政治家であるねこが力をもつ。ねこやおおかみが力を持ってしまうと、民主主義ではなくなってしまう。森元首相はねこやおおかみなのがあって、これまでにその首に鈴をかけられることがなかった。いまだにその首に鈴がかかっていない。

 ねこやおおかみが、力を持ったままになってしまう。日本でそれが起きてしまうのは、報道がきちんと機能していないからだろう。報道がやじ馬としての機能を十分にもち、ねこやおおかみの政治家に強い関心を寄せて行く。ねこやおおかみの政治家をどんどん批判としてとり上げて行く。ねこの首に鈴をかけて行くようにすることがいる。

 やじ馬としての働きが弱いのが日本の報道にはあるから、ねこやおおかみの政治家に照明が当たりづらい。ねこやおおかみの政治家に光が当たらずに、暗いやみの中に隠れてしまう。ねこやおおかみである森元首相がきちんと批判としてとり上げられてこなかったのがあり、日本の報道の機能の不全があらわれ出ている。

 森元首相だけではなくて、ねこやおおかみに当たるものとしては、安倍晋三元首相や、自民党のうら金の当事者の政治家や、政党では自民党などもそうだ。それらのねこやおおかみが力を持ちつづけてしまう。ねこの首に鈴をかけに行くのがなかなかなされづらいのが日本にはあって、それによってうら金のことがおきてしまった。

 報道がもっているべきやじ馬の機能が弱い。報道において、もっとやじ馬の精神を強くもって、ねこやおおかみに当たる政治家などをびしばしと批判としてとり上げて行かないと、日本の中の社会の矛盾がなかなか片づいて行きづらい。

 何らかの強制に従って行動することなのが他律性(heteronomy)だ。うら金のことでは、森元首相が超越の他者(hetero)に当たり、それによって下の人が動かされる。超越の他者はねこやおおかみであり、誰もそれにさからえない。自分の意思によってのぞましい行動をすることなのが自律性(autonomy)だけど、その自律性がいちじるしく欠けてしまう。

 他律性によっていて、超越の他者に動かされているのがあるから、そこを改めて行きたい。自律性によるようにしないと、ねこの首にねずみたちが鈴をかけに行きづらくなる。

 いまの日本の国の憲法では自律性がよしとされているのがあり、憲法をしっかりと守るようにしないと、超越の他者に動かされることになる。ねこやおおかみに当たる政治家がいつまでも力を持ちつづけてしまう。憲法が守られていなくて、超越の他者が下の人を動かしている図が見えてきているのが、政治のうら金のことにはある。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹法哲学入門』長尾龍一