映画館における多数者と少数者

 少数者が、快く映画館で映画を見られるようにして行く。

 からだに障害を持った人などの少数者を排除して、多数者だけが快く映画館で映画を見られるのでよいのだろうか。それとも、少数者を包摂した映画館のほうがよりのぞましいのだろうか。

 とくにからだに障害を持たないような多数者だけが、映画館で映画を見られればよい。少数者は映画館で映画を見られなくてもよい。多数者を主にするものだ。

 少数者は映画館で映画を見られるだけでよしとするべきである。すこしくらい不便なところがあってもがまんするべきだ。ウェブの X(Twitter)ではそうしたつぶやきが言われている。

 少数者を包摂しないで排除する映画館があるのだとすると、それについての正当性を問いかけてみたい。

 たしかに、映画館を営む民間の会社なんかは、財源のじじょうを抜きにはできなさそうだ。財源がきびしいのであれば、少数者を切り捨ててしまいかねない。多数者が優先になってしまう。財源にゆとりがあれば少数者を包摂しやすいのはあるかもしれない。

 財源の点をくみ入れてみると、少数者を排除する発想が出てきてしまいかねない。少数者に不快を与える映画館が作られてしまう。

 映画館で映画を見るさいに、少数者が不快をおぼえる。たとえ不快をおぼえたのだとしても、それくらいはがまんせよ。または、不快をおぼえるのであればその映画館を利用しないようにするべきだ。そういったことが言われているけど、不快をおぼえるところでいったん立ち止まるようにしたい。

 なんでその映画館を利用することで少数者が不快をおぼえるのだろうか。不快さがあるのだとすれば、それを思考して行く。不快を思考することがあったらよい。少数者を排除するような冷たさのある映画館を、人間化して行く。非人間の映画館を人間化して行く。そういった改善がなされればよい。

 いまの時点で、その映画館のありようが、非標準や不平等や非人間なふうになっているのだとすれば、それらを改めるようにして行く。標準化や平等化や人間化だ。

 いっけんすると、少数者が映画館に文句をつけたりけちを付けたりしているように受けとれる。表面としてそう受けとれてしまうのはあるけど、少数者と映画館があるとして、その二つのうちで変わることがあったらよいのは映画館の方なのである。

 ふつうだったら、多数者は変わらなくてよくて、少数者がそのあり方に合わせるべきだとされてしまう。それだと非標準や不平等や非人間なあり方が改まらないのである。放ったらかしにされてしまう。きもになるのは、ふつうは変わらなくてよいのだとされる多数者の方を変えて行く。標準化や平等化や人間化するさいにはそれがきもになる。

 そういうふうに映画館のありようがなっているのだから、少数者はそれに合わせよ。X のつぶやきでそう言われるのがあるけど、そのさいの映画館のありようはかくあるの事実(is)だ。かくあるの事実から、かくあるべきの価値(ought)を自動ではみちびけそうにない。自動でそれを導いてしまうと自然主義の誤びゅうにおちいってしまう。

 少数者が不快をおぼえることがあるのであれば、それについてどんどん批評して行く。映画館で不快をおぼえるようなことがあったら、がまんしないでどんどん批評していったらよい。映画館にかぎらず色々なことについて、少数者が批評をして行く。そうして行けば、うまくすれば多数者のありようを変えることがなりたつ。

 ふつうはそれをやらなくてもよいのだとされてしまうものである、多数者のありようを変えて行く。あり方の標準化や平等化や人間化をなす。できればあり方が改まったほうがよいのがあるから、多数者のあり方を一方的に少数者に押しつけるのは十分な正当性があるとはいえそうにない。

 そういうふうになっているのだからとするのはものごとの自然化だ。それを脱自然化して行く。人が人工で構築したものなのであれば、うまくすればそれを変えることがなりたつ。まったく不変のものなのではない。

 映画館のありようは人が人工で構築したものなのだから、いっさい変えることができないものだとは見なせそうにない。脱構築(deconstruction)することがあってもよくて、少数者を含めて人にやさしいあり方に一から作り直すことがあってもよいものである。

 自分の意思によってのぞましい行動をして行く。自律性(autonomy)だ。いまの日本の憲法では自律性がよしとされている。何らかの強制にしたがって行動するのは他律性(heteronomy)である。

 できるだけ少数者が自律性によるようにできたほうがのぞましい。少数者が自己決定できるようにして行く。他律性によるのだと、父権主義(paternalism)になってしまう。

 父権主義で、こうせよとかああせよとかとされるのは、自分がもしも少数者だったらいやなものである。当事者を抜きにして第三者や局外者がいばるのはこまる。超越の他者(hetero)によって動かされたくないものである。上から命じられるのはゆかいではない。当事者が自己決定できたほうが良いのがある。

 参照文献 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『本当にわかる論理学』三浦俊彦精神分析 思考のフロンティア』十川幸司(とがわこうじ) 『だれか、ふつうを教えてくれ!』倉本智明 『はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術』川崎昌平(しょうへい) 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹構築主義とは何か』上野千鶴子編 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫