性の少数者と、トイレの使い方―トイレの構築性と、脱構築

 性の少数者(LGBTQ)は、体の性に合ったトイレを使うべきなのだろうか。それとも心の性に合ったトイレを使うべきなのだろうか。

 トイレは制度であって、制度よりも、性の少数者のほうを重んじるべきだ。理想論としてはそうできそうだ。

 制度を見てみると、トイレは男性か女性かの二つに分けられているものであり、分類として見るとまずさがある。分類が二つしかないから、数が少なすぎる。

 現実論として見てみると、分類が二つだと、単純化できる利点がある。欠点としては、単純化しすぎなのがあり、複雑さをとり落とす。

 どういうふうに現実がなりたっているのかといえば、複雑なありようをしている。性の少数者は、現実の複雑さをしめしているのがあり、現実をすくい取っている。

 現実がもつ複雑さから離れてしまっているのが、トイレにおける二つの分類のあり方だ。トイレにおける男性か女性かの分類のし方を自明なものとするのではないのであれば、自明さをうたがうことがなりたつ。

 実体として、性において男性と女性があるのではない。本質や客観として男性と女性があるのではなくて、その二つは象徴化(symbolize)されたものだろう。男性らしい男性や、女性らしい女性といったように象徴化されたものであり、白か黒かだ。中間の灰色のところが切り捨てられていて捨象されている。

 理想論としては、性の多様性をくみ入れたトイレのあり方のほうがよいけど、現実論としては男性か女性かの二つの分類のあり方であることが一般だ。現実の制度としてのトイレのあり方が、本質や客観として悪いものだとは言い切れそうにない。

 あくまでも制度にすぎないのが現実のトイレのあり方だから、それを脱構築(deconstruction)することがなりたつ。人為や人工で作ったものにすぎないのがトイレだから、ぜったいに変えられないといったほどには固定化されたものではない。

 どういう目的でトイレを使うのかでは、使う人が損や害を受けずに、すみやかに用を足せればよい。その目的が達せられればよい。男性か女性かを分けるのが目的ではない。

 目的を優先させてみると、状況によっては、女性が男性のトイレを使うことがあってもよいものだろう。女性のトイレがそのときに混んでいて、男性のトイレがすごい空いているのなら、女性が男性のトイレを使ったほうが効率が良いことが中にはありそうだ。そういったさいには、女性が危害を受けないようでなければならない。

 男性であっても女性であっても性の少数者であっても、みんなが平等にあつかわれるのが理想だ。社会における平等のことが正義であることであり、その点では、たとえ性の少数者であったとしても、自律性(autonomy)がもてるようであるのがよい。自律性では、男性と女性とのあいだの階層(class)の格差の悪さもある。

 他律性(heteronomy)によってトイレを使わされるのだと、たとえ自分がいやだなと思うことでも、強制されて、それに従わされてしまう。自律性によれるのであれば、自分の意思によってのぞましい行動をとることができる。

 他の人に危害を与えるのではないのであれば、他者の危害の原則には反していないから、さいていげんの社会において守るべき決まりは守れている。さいていげんの義務は守れている。

 性の多様性をできるだけなして行くことを目的にするのであれば、性の少数者を重んじるようにして行く。男性と女性の二つだけの分類のあり方を、ぜったいに自明なものとはしないようにして行く。自明性をうたがうようにして行く。

 あくまでも構築されたものにすぎないものとして、トイレにおける男性か女性かの二つの分類のし方をとらえることができる。もっと(性の)多様性や自由があってもよい。理想論としてはそうできそうだ。トイレは社会の中にあるものだけど、広く社会の中において性の多様性や自由が高まるようにして行きたい。そうしていったほうが、たんじゅん化しすぎる分類のし方を改めて行ける。

 参照文献 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『ジェンダー / セクシュアリティ 思考のフロンティア』田崎英明 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『現代倫理学入門』加藤尚武(ひさたけ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘