LGBT の法案と、差別をなくすこと―どういうふうにして差別をなくして行くべきか

 性の少数者への理解を増して行く。そうした法案が、日本で作られた。LGBT 理解増進法案だ。

 この法案で、性の少数者への理解がどんどん高まって行くといえるのだろうか。

 法案の名については、ちがう言いかえが色々に言われている。法案にまずいところがあるからだ。LGBT 差別増進法案だとか、LGBT 誤解増進法案だとかとされている。

 不当な差別はあってはならないのだと法案では言われている。自由主義(liberalism)の点からすると、その文句にはまずさがある。中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義だ。

 不当な差別ではなくて、普遍化できない差別とするべきなのがある。普遍化できない差別をなくす。自由主義からすれば、それがいるのがある。

 何があってはならないことなのかといえば、差別に加えて、国が上から価値を押しつけることだ。近代の国のあり方であれば、自由主義によることがいるから、国が上から価値を押しつけないようにすることがいる。

 標準でないとか、ふつうでないのが、性の少数者であり、よくないものだとするのだと、国が上から価値を押しつけてしまう。性の多数者である男性や女性だけが正しいのだとするのは、国による上からの価値の押しつけだから、自由主義の点からするとよくない。

 ほかの国にも多かれ少なかれそういうところがあるだろうが、日本は国が特殊なあり方をしているために、国が上から価値を押しつけやすい。日本の国は、特殊さによっていて、いろいろなことを日本の固有の性質でやってしまっている。性でいえば、性の多数者が正しくて、性の少数者はまちがっているとの価値を、国が上から押しつけている。それを日本はやらないようにしたい。

 普遍化の可能性の試しをやってみると、かりにもしも自分が性の少数者であったとすれば、差別されることはとうてい受け入れられるものではない。つねに当てはまる性質であることが普遍にはいる。立ち場の反転(入れ替え)をしてみて、もしも自分が性の少数者であったとしたさいに、当てはまらないのであれば、それは普遍であるとは言えそうにない。

 自由主義によるようにして、普遍化できない差別をなくす。法案にあるように、不当な差別はあってはならないとするのではなくて、自由主義によるようにすれば、性の少数者への差別だけではなくて、男性と女性とのあいだにおける女性への差別もいっしょに問題化することがなりたつ。

 性の少数者への差別だけではなくて、男性と女性のあいだにおける女性への差別もまた普遍化できない差別だ。法案にある文句をもち出してみて、女性への不当な差別はあってはならないとするのだと、よいあらわし方ではない。よいとらえ方ではない。

 女性への差別であれば、法案の文句にあるように、女性への不当な差別はあってはならないとするのではなくて、ちがうように言いあらわす。もっと踏みこむ。もっとしっかりとより踏みこむようにして、自由主義の点からして、それが普遍化できない差別であるのなら、それをなくす。あってはならないといったことであるよりも、もうちょっと踏みこんで、それをなくすようにすることがいる。

 性において、階層(class)の格差があるのであれば、その格差を改めて行くことがいる。性の多数者が優の階層で、性の少数者が劣の階層になっているのなら、劣の階層に置かれているものを脱構築(deconstruction)して行く。脱構築をして行くことが、劣の階層(性では、性の少数者や女性など)にたいしているのがあるから、それをやるようにしたい。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫脱構築 思考のフロンティア』守中高明構築主義とは何か』上野千鶴子編 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき)