国会での山本太郎氏の行動の、多義性―行動の意味や価値の非一義性

 国会で、暴力をふるった。大げさに言えばそうしたことをやったとされているのが、野党であるれいわ新選組の代表の山本太郎氏だ。

 山本太郎氏が国会でやった行動を、どのように見なせるだろうか。

 記号表現(signifier)に当たることをやったのが山本太郎氏だ。そう見なしてみたい。

 国会において山本太郎氏がなしたことは記号表現に当たるものだが、それをどのようにとらえるのかがある。それを暴力だととらえるのは、一つの記号内容(signified)だ。

 言葉には、音と内容の二つの側面がある。音は記号表現であり、内容が記号内容だ。その二つが合わさって記号(sign)になる。

 言葉では、同じ記号表現であったとしても、人それぞれによってちがう記号内容になることがある。それと同じように、同じ行動であったとしても、人それぞれでちがうとらえかたになることがある。人それぞれで記号内容がちがう。

 すぐれた作品なんかだと、たった一つだけではなくて、色々な解釈がなりたつ。すぐれたものほど、色々な解釈をゆるす。

 作品もまた記号表現に当たるものだ。あんまりよくない作品だったら、いろいろな解釈を許さない。たった一つだけの解釈しかできない。そういったことになる。一つしか記号内容がない。

 山本太郎氏が国会でやった行動を見てみると、一つだけしか記号内容を持たないのではない。いくつもの記号内容をもつ。いろいろな解釈をゆるす。そうしたものだと見なせそうだ。

 いろいろな解釈をゆるすことを国会でやったのが山本太郎氏だろう。(暴力で被害を受ける人がおきたらよくないことだが)なかなかうまいと言うか、ゆうしゅうなところがあるのが山本太郎氏だといった気が個人としてはする。

 たんじゅんだったら、それが良いか悪いかだ。複雑であれば、良いけど悪いとか、悪いけど良いとなる。山本太郎氏が国会でやったことは、たんじゅんなことだとは言えそうにない。複雑なものであり、良いけど悪いまたは悪いけど良いに当たるものだろう。

 たった一つだけの視点によるのだと、わかったつもりにおちいってしまう。視点をいくつも増やすようにして、わかったつもりにおちいるのを避けるようにしたい。とることができる色々な視点があるから、それらを色々にとり上げるようにして、理解を深めて行く。

 大げさにいえば、国会において暴力をふるったとされているのが山本太郎氏の行動だけど、それはあくまでも一つの記号表現における一つの記号内容にすぎない。その記号内容が、まさに核となるような中心のものに当たるとは言い切れそうにない。ほかにも色々な記号内容があるから、それらを色々に見て行く。そういったことをやるようにすれば、わかったつもりにおちいりづらい。

 参照文献 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『超入門! 現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『論理表現のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一